二階堂奥歯『八本脚の蝶』――祈りと愛の墓標

「八本脚の蝶」というサイトをご存知でしょうか? 編集者にして稀代の読書家であった二階堂奥歯さんが、2001年の半ばから2003年4月の死の直前まで日記を綴りつづけたウェブサイトです。

このサイトは2017年8月現在でも閲覧できますが、書籍版も刊行されていて、そちらには彼女が雑誌「幻想文学」へ寄稿したいくつかのブックレビューと彼女と関わり合いをもった人々による「記憶――あの日、彼女と」と題された13の追悼文も収録されています。

八本脚の蝶 / 二階堂奥歯 / ポプラ社 / 2006
八本脚の蝶 / 二階堂奥歯 / ポプラ社 / 2006

上の文を書いてみて初めて気づいたのですが、この日記、2年分に満たないんですね……。あまりに切実で、濃密で、1年と約10ヶ月でこれであれば26年分は一体どれほど、と、所詮彼女と袖触れあうこともできなかった他人の勝手な憶測とは知りつつも、奥歯さんの抱えていたものの重さに思いを馳せてしまいます。

世界が今日終わればいいと思っていることは知ってるよ。でも終わらなかった。いつも終わらないんだ。ただあなたが大切に思っているものを、私は今でも大切に思っている。あなたが遺してくれたものを私は受け取っている。大丈夫だから。

「みんな忘れてしまいがちなんだけど、この世界は本当はとてもうつくしいんだ。」朝、電話でそう言った人がいた。「ええ、そうですね。」と私は答えた。本当にそう思ったから。

何不自由なく満ち足りたこの世界で私はなぜだか戦場にいるような気がします。

無自覚なままでは無垢でいられない。

二階堂奥歯『八本脚の蝶』

アナスイのコスメ、ベッドルルイエ化計画(!?)、ピノコ、人形論(あるいは「人形化」論)、マゾヒズムと聖性、聖マルグリット・マリー……。信仰・祈りというもの、誠実であるということ、読むものと読まれるもの、女性へ向けられる眼差しについて……。

彼女の人生はとても短いものでしたが、ここまで鮮烈に自分というものを遺したひとはそういないのではないでしょうか。ウェブサイトという、誰に向けるわけでもない場で綴られていたからか、日記には彼女の愛したもの、考えていたこと、苦しみ、祈り、あらゆるものが無防備なまでにむきだしで、それが一冊の書物になっている様はまるでひとつの墓標のようです。彼女との記憶を紡いだ13人の文章が手向けられた花を彷彿とさせるものですから、尚の事。

著者紹介の「自らの意志でこの世を去った。」という書き方ひとつとっても、奥歯さんの選択、そしてそこに至る道程への敬意が垣間見えて、この本はほんとうに、奥歯さんの想いと、奥歯さんへの追慕、ただそれだけで編まれたのだなと、なんとも言い表し難いものを覚えます。

わたしには自分に課したルールがあって、積んでいる本の山が更地になり、書店をぶらぶらしてもこれという本に出会えないとき、そういうときにだけ、『八本脚の蝶』で奥歯さんが引用や言及をなさっている本を意図的に探し手にとってよい(偶然ならいつでもOK)、というものです。登場するものを読み切ってしまえば何だか寄る辺ない気持ちになってしまう予感があり、こんなルールで縛ってゆっくりゆっくり消化しているのですが、『トーマの心臓』でトーマがユリスモールの借りた本を追って読んでいたあれに似たものがあるな、と自分で思わず苦笑してしまいました。

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『塩一トンの読書』――須賀敦子に慈しまれたものたち

空は青く、緑はむせかえるように萌え、しだいに湿り気を帯びた美しい夏の気配……と、相も変わらずの耐え難い暑さに包まれはじめた今日この頃ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

暑さにめっぽう弱いわたしは、窓を開け風を通した自室にすっかり引きこもりがちになっています。そんな部屋の中で、本棚に並べてあった蔵書をふたたび紐解いてみたりしているうちに、いつかこの場で紹介したいと思っていた一冊がふと目に入ったので、この機に記事を書くことにしました。

塩一トンの読書 / 須賀敦子 / 河出書房新社 / 2014
塩一トンの読書 / 須賀敦子 / 河出書房新社 / 2014

須賀敦子先生の、本と読書と、それらと共にあった人生にまつわる慈しみに満ちたエッセイのまとめられた『塩一トンの読書』。

すぐれた文章家の書く文は、不思議とそれぞれ特有の雰囲気を漂わせるものですが、須賀先生の著作からは、温かい静寂に満たされた夏のそれが感じられるように思います。ただし、匂い立つような熱気のまとわりつく日本の夏ではなく、想像の中のイタリアの夏の、からっと晴れわたり、穏やかでオレンジがかった光に満ちた昼下がりから夕暮れにかけて。

写真の河出文庫版『塩一トンの読書』は、タイトルのフォントや写真といったカバーデザインもそんな文章の雰囲気にひっそりと寄り添っていて、けっして華美ではないけれど落ち着いた存在感のある一冊に仕上がっています。

特徴的なタイトルは、作者の姑さんが口癖のように用いたという「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」という言葉から。作者はこの言葉を幾度も思い返し、古典文学を読み解こうとする際にもこの心持ちで挑まれたそうです。

収録されたエッセイのひとつ『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』における、計り知れない知性と教養に支えられた『細雪』論などを読んでいると、とほうもなく遠いひとに思われてくる須賀先生ですが、

記憶のなかの本。むかし読んだ本を、まるで反芻するようにおもいだして、一日のふとした時間のなかで、その感動にひたることがある。

終結部分(電車の中で読んでいて、そこだけは家に帰って読むことにした)はすばらしい。

というところなど、端正なエッセイの中、ふと彼女の日常のにじむ箇所には、語り手である彼女にそっと指先が触れたかのように共感できるところもあり、また、タブッキの『インド夜想曲』とフェルナンド・ペソアという詩人についてのエッセイの中の、

ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。

という記述に、「ふたつの言語をもつ」などとはとても言えない未熟者の外国語学習者であるわたしでさえも、大学に入ったばかりの頃、辞書とにらめっこする毎日にふと不安になり、学校の授業のための本以外では鏡花全集ばかりめくっていた時期があったなあとぼんやり思い出されたり。そんな身につまされるフレーズもふと織り込まれているものだから、読み終わって本を閉じたときには、どこか不思議な読後感が残ります。

それにしても、作者の回想の中、彼女を愛し彼女に愛された人々の、まるですぐそこにいるような、ちょっとした表情の動かし方や話すリズムさえ伝わってきそうな描かれ方といったら。一冊一冊と一トンの塩を共に舐めようとするようなエッセイを読むにつけても、愛情深い方だったのだなあとしみじみ偲ばれます。

『ユルスナールの靴』にある幼少期の回想曰く、いつも大きめの下駄を買い与えられころころと転んでばかりいたらしい少女が、人を教え導く凛とした女性になってゆく道のりを、彼女がなにを慈しんで生きたのかを、常に彼女のそばにあり続けた本についての真摯な語りを通して垣間見ることのできる幸いには、いくら感謝してもたりないほどですね、ほんとうに。

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『薔薇の全貌』―世界を革命したアニメ、少女革命ウテナ

NHKが主催し、今年1月から3月にかけて投票が行われた「ベスト・アニメ100」。「TIGER & BUNNY」や「魔法少女まどか☆マギカ」、「おそ松さん」に「カードキャプターさくら」(店員N、思わずガッツポーズ)、「新世紀エヴァンゲリオン」等そうそうたる作品がランクインする中、1997年に放送され今でもカルト的人気を誇る「少女革命ウテナ」が30位につけました。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』の有名なフレーズやJ・A・シーザーの呪術的音楽、表現至上主義的な比喩的演出を取り入れたことによる独特の雰囲気をもち、一見いかにも「少女マンガ」的なキャラクター達が放つのは心の柔らかい部分に容赦なく切り込んでくるセリフの数々。人間の欲望を惜しみなく曝けだし、けれどもその根底にある愛を礼賛もする。2017年現在に至っても、色褪せぬ鮮烈さで人々を惹きつけてやまない「ウテナ」。

今回は、そんな「少女革命ウテナ」の公式ファンブック『薔薇の全貌』をご紹介しつつ、作品への個人的な思い入れを語ってゆきたいと思います。

少女革命ウテナ 薔薇の全貌 / AX特別編集 / ソニー・マガジンズ / 1999
少女革命ウテナ 薔薇の全貌 / AX特別編集 / ソニー・マガジンズ / 1999

残念ながら現在は絶版となっており入手困難な品なのですが、「ウテナ」の魅力が濃密すぎるほど詰まりに詰まっています。

『薔薇の全貌』の大部分は、上の数枚のようなカラーイラストと作中の印象的なフレーズを組み合わせたページが占めています。この本が発行されたのは1999年、今から20年近く前なわけですが、このデザイン性、この配置、この文字組!! これでは色褪せようもないよなあ、としみじみすることしきりです。フレーズにしても、「ウテナ」ファンは間違いなくこれ好きでしょう、というところを狙って抜粋されている感があって、数枚めくったところですでに「もう降参」という心持ちにさせられます。

半ばに袋とじのスタッフインタビューがあるのですが、この密度もまたすごい。スタッフごとに数ページ分しか収録されていないのに、この作品に対する思い入れ、なぜこんなアニメを作ろうと思い立ったのか、この作品を通してどんなことを伝えたかったのか、このシーンにはどんな思いを込めたのか、等、作り手へのインタビューというものに視聴者が求める内容はおおよそコンプリートされているように思います。作り手の思惑が「正解」かというと決してそうではないし、自分が作品と一対一で向き合ったときに受けた情動が何より大切ではあるのでしょうが、それはそれとして単純な興味は尽きませんから、スタッフインタビューはやはり抑えておきたくなりますよね。

〈黒薔薇編〉は「簡単すぎた」けれど合間にあの話がなかったら視聴者は付いてこられなかった気がするからまあよかったのかもしれない、というような芸術としての作品づくりと商売としてのそれとの間で生じる葛藤だとか、いろいろな裏話がされているのですが、わたしがとくに夢中になって読み込んだのは、キャラクターデザインとマンガ版を担当したさいとうちほさんへのインタビュー。

視聴者の快楽/登場人物の快楽の匙加減や「王子様はいないから、ひとりで生きていかなければならない」という作品全体のテーマのシビアさについて、伝統的に心情描写の多い少女マンガの作家独自の視点からコメントなさっていて、かなり読み応えがありました。

このあたりを読んでいてふと思い出されたのが、個人的にウテナ本編で一番印象に残っている、最後の決戦前、どう転んでも平穏なときに戻れはしないだろうとわかりきっている状況で、主人公ウテナと幹・樹里先輩がバドミントンをするシーン。そこはかとない不穏さが漂う中、それでも尚清々しい、あの光景。

振り返って考えてみると、あの場面は一方通行の想いが暴走することの多かった物語の終盤に、自分の打った球(相手に向けた想い)を正しく受けとめ返してくれる人がいるという幸福を示す役割を果たしていたのではないかと思います。

王子様コンプレックスを抱えていたウテナも、特定の人物への強い執着を持て余していたふたりも、序盤から終盤にかけてずっと歪みを抱えていたけれど、ウテナと決闘という形で信念をぶつけ合い、最後にはどこか吹っ切れたような様子でまっすぐに笑っている。「人はひとりで歩いてゆかなければならない」というテーマは紛れもなくシビアなものですが、この作品のデュエリストたちは、そうして掴み取った自分の道は清々しい幸福に満ちているのだという希望をも一緒に渡してくれるから突き放されたままではない。登場人物たちみんながみんな救いに辿りつけたわけではないというあたり、残酷なことは残酷ですが、ある意味そういった弱い人間の存在が目をそらされず許容されているともいえる。そんなところも、「ウテナ」の大きな魅力のひとつなのかもしれません。

余談ですが、ウテナは副題もはっとさせられるものが多くてじつにいいですよね……2話「誰がために薔薇は微笑む」、31話「彼女の悲劇」、そして最終話「いつか一緒に輝いて」あたりはこの短いフレーズを見ているだけでもうどきどきしてしまいます(その反動か、ギャグ回は奇天烈なタイトルばかりなのもキュート。ギャグにもいろいろ潜ませてくるので油断はできませんが)。

古本屋 草古堂は、「少女革命ウテナ」の関連書籍、DVD・Blu-ray やCD-BOX等の買い取り大歓迎です!! 出張買取も承りますので、お気軽にお問い合わせください

ミュシャ展(国立新美術館、2017年、スラヴ叙事詩)感想+グッズ情報

こんにちは、店員Nです!! 今回は、先日訪れた「ミュシャ展」についてグッズ情報や個人的な感想を書いていこうと思いますが、ミュシャ展の概要や見どころは店員Sさんがこちらの記事にわかりやすくまとめられているので、先にご覧になっておくことをおすすめします。

会場に入ってしばらくは、本展覧会の目玉である「スラヴ叙事詩」のコーナーが続きます。あえて離れて全体像を鑑賞するもよし、近づいて細かい部分をつぶさに観てゆくもよし、どちらも違った趣があるので、ぜひご自分に合った鑑賞方法を探ってみてください。

わたしは遠くから眺める→近寄ってじっくり見つめる、という流れで1枚1枚観ていったのですが、色彩の繊細なグラデーションによって表現された空の様相、カッと見開かれた瞳や微笑をたたえた唇でもってありありと感情を表す人物たち、思い切った構図などには感嘆を禁じえませんでした。

しかも、じっと見つめているとなんだか切なくなってくるんですよね……ミュシャが郷愁と信念から故郷のルーツを辿って描いた、という経緯を前情報として知っているからかもしれませんが、それだけでもない気がします。

わたしが今回のミュシャ展を通じてもっとも心を揺り動かされたのは、「スラヴ叙事詩」の中の1枚にひっそり描かれていた、生命力そのもののように、希望の象徴のように照らされて輝くひとつの植物だったのですが、どうしてあそこまで惹きつけられたのか、それさえも、理屈では今もってわからないのですから。

「スラヴ叙事詩」について、絶対にお伝えしておきたいことがひとつあります。実物のアウラ(本物のオーラ)を味わうためというのがおそらくは主な理由なのでしょうが、美術品は複製品ではなく本物を観てこそ、とよく言われていますよね? たしかに偉大な美術品に直に向かいあったときのあの緊張感と感動は言い知れぬものがありますが、そんな抽象的なことを言われても……と戸惑われる方もいらっしゃるでしょうし、実際問題、鑑賞にあたって時間・体力ともに必要となる展覧会に頻繁に足を運ぶのはなかなかに困難で、その点図録は一度買えば繰り返し好きなときに見られるのだからそちらで妥協しようという気持ちにもなると思います(実際わたしもよくやります)。ですが「スラヴ叙事詩」に関しては、もっと具体的な、そして目に見える、実物を観にいったほうが良い理由があるのです。

それはなにかというと、箔です。みなさん、ポスター等をスキャンしようとして、金箔の部分が錆びた銅色っぽくなってしまったり、銀箔の部分が白っぽくなってしまったりした経験はありませんか? あれと同じことが、「スラヴ叙事詩」を印刷する際にも起こっているようです。「スラヴ叙事詩」には箔(この呼び方が正確なものかはわかりませんが、まあきらめく部分です)が多用されています。箔を惜しみなく使って星を表現しているものがあったかと思えば、隅の方に描かれている村娘の服飾品にあしらわれていたりもする(もしかすると、巨大な絵画であるがゆえの、端まで視線を誘導しようという仕掛けなのかもしれません)。あのきらめきがあるかないかでは、絵画全体の印象が大きく変わってきます。なので、どうあっても一度実物を観、その後図録や画集を入手して眺めつつ思いを馳せる、というのが良いのではないか、と個人的には思っています。

そんな「スラヴ叙事詩」を賞しつつ進み、叙事詩終盤の4・5枚を撮影することのできるコーナーを抜けると、比較的小さめの絵画が展示されるエリアに出ます。「四つの花」といった連作やサラ・ベルナールの舞台のため描かれた作品群、つまりは有名どころを鑑賞できるのはここで、ロダンとも親交のあったというミュシャの彫刻作品も拝むことができます。ベルナール・コレクションは昔から大好きなので夢中になって眺めましたが、生「メディア」の迫力はやはり凄まじかったです……。「椿姫」がなかったのが残念といえば残念ですが、それを補ってあまりある満足感でした。 

そこから、パリ万博やチェコの独立闘争絡みのあまり馴染みのない作品の多く並ぶコーナーを抜け(とても新鮮で興味深かったです。ミュシャのデザインしたお札なんてものも!!)、最後に辿りつくのは、おそろしく混雑しているグッズ販売コーナー。文字通りの寿司詰め状態、夏のコミックマーケットに参加されたことのある方はあれを思い浮かべていただければ近いかと思います……。ですが苦労をおしてでも手に入れたい素敵グッズばかり。

以下しばらく、わたしが購入したグッズの写真とちょっとしたコメントになります。参考資料として役立てていただければ幸いです。

2017年 ミュシャ展 ポストカード
2017年 ミュシャ展 ポストカード
2017年 ミュシャ展 クリアファイル
2017年 ミュシャ展 クリアファイル

まず、定番のポストカードとクリアファイル。美術展に行くとつい買ってしまいますよね。コレクションなさっている方も多いだけに、この周辺が一番混雑していました。ポストカードは壁沿いとコーナーの中心あたりに位置する回る棚の2箇所に並んでいて、回る棚の方は、ほかのお客さんに気を遣って回すに回せなかったり、目当てのものを取ろうとしたタイミングでぐるっと回されたりとなかなかハードなので、壁沿いの方をおすすめします。断言はできませんが、おおよそ同じ種類のものが並んでいたと思うので……。

2017年 ミュシャ展 クリアしおり
2017年 ミュシャ展 クリアしおり

お次は、たまに見かけるけど若干変わり種かな? という感のあるクリアしおり。ミュシャの作風とこういうグッズってとても合いますよね。わたしは本と栞(あるいはブックカバー)のイメージをできる限り近づけたいタイプなので、向かって右のピンクはマルグリット・ユルスナールの小説に、左のブルーはエロシェンコ全集に挟もうと思ってワクワクしています。

2017年 ミュシャ展 チケットホルダー
2017年 ミュシャ展 チケットホルダー

最後に個人的な大本命、チケットホルダーです!! 舞台や展覧会に行くとき、すてきなホルダーにチケットを入れると気分が盛り上がりますよね。

ほかにトートバッグやiPhoneケース、こちらも定番のマスキングテープ等があり、全体的に実用的なグッズが多かった印象です。

こんなところで失礼したいと思いますが、そういえばミュシャについてはかなり前に書いたこちらの記事でも若干触れていますので、ご興味のある方はどうぞ。

『ハリー・ポッターと呪いの子』――厳しくも優しい、誠実な続編

その世界観と魅力的な登場人物たち、そしてファンタスティックなストーリーで世界中の子供達を今なお虜にしつづける「ハリー・ポッター」シリーズの正統な続編『ハリー・ポッターと呪いの子(スペシャル・リハーサル・エディション・スクリプト)』が刊行されて数カ月が経ちました。

書店に走ったあの日から、ひとつ季節が移り変わったのかと思うと時の流れの速さにびっくりさせられます。そのうちここで感想を述べよう、と決めてはいたのですが、時節に合わせた記事を書いているうちに時は過ぎ、完全にタイミングを逸した形になってしまいました……。作品への愛だけはありったけ込めましたので、本編ファンでまだ「呪いの子」は読んでいないけれどどんな感じだったのだろう、と気になっている方や、「呪いの子」を読み終えて他の人の感想も知りたい!! と思っていらっしゃる方に楽しんでいただけたら幸いです。

前者の方々のため、ネタバレにならないよう、できるだけ具体的な内容には触れずに感想を書いてゆきますが、すでに読破なさっている方は、「ここはあのエピソードのことを言っているんだな?」とニヤッとしてみてください。

ハリー・ポッターと呪いの子 / J.K.ローリング&ジョン・ティファニー&ジャック・ソーン 松岡佑子訳 / 静山社 / 2016
ハリー・ポッターと呪いの子 / J.K.ローリング&ジョン・ティファニー&ジャック・ソーン作、松岡佑子訳 / 静山社 / 2016

この続編は、ハリーの息子アルバスとドラコの息子スコーピウスの友情・冒険物語であると同時に、かつて多くの犠牲の上に英雄となったハリーたちが過去に復讐され、それを苦悩しつつ受けとめたて再び成長してゆく、そういった物語であったように思います。

ハリーとヴォルデモート卿の戦いの中で、世界を救うべく駆け抜ける「生き残った男の子」のすぐ隣で命を落とし、 その激動ゆえにゆっくり悼まれ顧みられることすらなかった、ハッピーエンドからとり零された人々。彼ら彼女らのことを今一度思い起こさせ、また同時に、グリフィンドールとスリザリンの確執など、本編でわだかまりを残したままであった事柄をもひとつひとつ解きほぐしてゆくような、本編と真っ向から対峙する続編。

三校対抗試合のラストでヴォルデモートの手にかかったセドリック・ディゴリーへの言及や、本編では結局互いが互いを嫌い、厭い、あるいは憎んだまま終わってしまったグリフィンドールとスリザリン、その対立の象徴であったハリーとドラコの関係性の変化にはぜひ注目してほしいところです(スコーピウスと、ロンとハーマイオニーの娘ローズのそれにも)。ジェームズやシリウスが幼き日に行ったスネイプ少年へのいじめもあって、スリザリンはたしかに傲慢で差別的だけれど、そんなスリザリンに対するグリフィンドールの接し方も大概ではないか、という意見がしばしば読者から出ていたように思いますが、本書の序盤でハリーによる闇の印をもつ者への「逆差別」という言葉がドラコから発されることからも、本編では解決することのなかったこの問題にしっかり向き合おうという姿勢が感じられます。

また、この物語のキーとなる「呪いの子」(おそらくはトリプルミーニング)、そのうちのひとりに救いがもたらされることはありませんでした。それまでの流れで独善的な視点を取り払われ、その子をただの「悪」だと決めつけることのできなくなった読者に、だれもが幸せになれる物語など存在しないのだと、残酷なまでにはっきりと突きつけた。だからこそ、「死の秘宝」のクライマックスで、ハリーがヴォルデモートを、モリー(ロンの母)がベラトリックスを打倒したときのような爽快感はないかもしれない。けれど、それでいい、そうあらなねばならない、そのやるせなさこそが、「戦い」というものを見届けたとき、 わたしたちの心のなかに本来生まれるべきものだと、諭されたような気がしています。

ハリーとヴォルデモートの共通点と相違点については、これまでにも作者や読者たちから頻繁に言及されてきましたが、個人的には今回の、救われることのなかった「呪いの子」とハリーの境遇の似通い様に、まさに因果応報、運命の皮肉を感じました。あの子の言葉は、ホグワーツ1年生のときに「みぞの鏡」に夢中になったハリーをえぐっただろうなと。

愛と冒険と成長の物語の続編として、とても誠実であり、厳しくも優しい、そんなすばらしい作品であったと、心の底からから拍手を贈りたい。

また、作者の母国であるイギリスで舞台「ハリー・ポッターと呪いの子」が上演されたとき、続編が描かれたことによって「その後」を想像する楽しみが奪われた、といくらか残念に思われた方もいらっしゃるかもしれませんが(孫世代、という通称でのファンアートも盛んに作られていましたし……)、蓋を開けてみれば、本編中にいくつもの“if”の世界が呈示されたことで、ここがこう違っていたらこの人はこうなっていたかもしれない、などと本編を読み返しながら想像する楽しみはむしろ増えたといえるのではないでしょうか。

最後にひとつだけ。これは『呪いの子』を読了した方に向けた言葉ですが、スコーピウスは狡猾の象徴としてのそれではなく、大切なひとのために自分の体を燃やせる、銀河鉄道のサソリでしたね。

古本屋 草古堂は、映画「ハリー・ポッター」シリーズのDVD・サウンドトラックや、この『ハリー・ポッターと呪いの子』、杖などの関連グッズ、『死の秘宝』刊行時に受注生産された全巻収納用木箱の買い取り大歓迎です!! 出張買取も承りますので、お気軽にお問い合わせください