ダウンタウンの"トカゲのおっさん"の源流ってコレ? フランツ・カフカ『変身』

『変身』(フランツ・カフカ/川島隆 訳/角川文庫/2022年)

私はこの作品が世界的に有名になって以後に生まれました。いくら読んだことがなくても、それなりの年数を送ってきた人生の中で『変身』がどんな物語なのか1ミリも知らない、という方が難しいでしょうから、どこまで新鮮に楽しめるかが気になりましたが、結果的にはとても楽しく読めました。ちなみに私は「主人公がある日、虫になった」としか知りませんでした(「しか」と書きましたけど、それがほぼ全てだった、というのが読後の印象)。

『変身』の新訳版が出たと聞き、海外の純文学に不慣れな自分でも読みやすいかなと手に取ったのがキッカケでしたが、その予想はドンピシャ当たりました。とても読みやすい!と言っても他の訳を読んでいないので比較はできませんが。

物語の舞台はずっと主人公の実家、9割以上が主人公の部屋の中です。しかし閉塞感や停滞は感じませんし、ストーリーの割に文体そのものには重さがなく、文章のテンポも一定で、まったく絵変わりしないのに不思議と飽きずにサクサク読めます。

ネタバレになりますが、印象的だったのは最後の場面です。訳者解説でも触れられていますが、それまでは地の文で「父親」「母親」「妹」と書かれていたのが、主人公が死んだ瞬間から先は「ザムザ氏」「ザムザ夫人」「グレーテ」に置き換わっていて、主人公と家族の関係性が完全に断ち切られたことが文体そのものから明確に伝わり、残酷さが際立っています。生前の主人公に対する疎みや憎しみを隠さなくなっていった家族の描写も怖いですが、まるで最初から主人公なんて存在していなかったかのような白々しい晴れやかさに溢れているラストの方が圧倒的に恐ろしいです。まるでマネキンが演技しているような絵が浮かんでゾッとします。

読後ネット検索して、『変身』には古今さまざまな解釈があることがわかりました。私には実存主義やシオニズムなど難しいことは分かりませんが、様々な解釈が可能なくらい、メッセージがない空っぽなもの(ディスじゃないつもりです!)なのでは?と思いました。カフカが読者の解釈をリードするような意図もまるで感じません。シュールなコントを見てるような気分で、『ダウンタウンのごっつええ感じ』の後期の名作コントとされている『トカゲのおっさん』にも似た不条理性を感じました。

私もあえて何か見立てのようなことをするとしたら、ストレスによる心身の不調から、主人公が自分が虫になったと思いこんだ物話ではないのかと想像しました。朝、目を覚ますと出発時間をとうに過ぎており、体を起こそうにも虫の体躯に慣れていなくて起き上がることも困難な様子は、抑鬱状態で朝がつらい人の典型に見えます。虫の脚からでる毒液が、部屋をはいずりまわったせいで部屋の床や壁にこびりついた描写がありますが、それはトイレで排泄をすることが叶わなくなった主人公の便だったりするのかなーとか。

なぜ虫になったのかの理由は明かされず、遠因を匂わせるようなことも一切なく、気持ちいい不条理さでした。出だしの一行目からもう虫になっているのもとても気持ちがよくて思わず吹いてしまいました。唐突すぎる!っていう(笑)

巻末(と言うにはページ量が多すぎる!"併載"と言うべきか)の訳者解説も本編と同じくらい読み応えがあり、はじめてカフカに触れるカフカ入門者にもうってつけです。

人間と小麦の切っても切れない関係!大塚滋『パンと麺と日本人 小麦からの贈りもの』

説明不要の大ベストセラー「サピエンス全史」を読んだ時に様々な気付きがあったのですが、中でも「農耕に出会って以降、人類は穀物に家畜化された」という視点がショッキングで頭に残りました。農耕により定住し面倒を見続けることが必須になり、食の大部分を穀物に頼った仕組みができあがってしまったと。この理論でいくと地球の覇者は小麦ということになります。そんな小麦がどのような形で人類と(特に日本人と)歴史を歩んできたかをより深く知りたいと思い、この本を手に取りました。

『パンと麺と日本人 小麦からの贈りもの』(大塚滋/集英社/1997年)

ただの雑草のひとつだった小麦が人間に見つかり、栽培され加工され、今日では小麦食品が口にされない日はありませんが、世界で主食とされるものとしては小麦をふくむ穀類のほかにイモ類があります。穀類とイモ類をくらべた時に、穀類は同じ量のイモよりもカロリーが高く、そのままだと腐ってしまうイモにくらべて保存もきき(保存ができる=富・財力になる)、計画的・集中的な生産も可能であることから、栄養面、経済面そして社会的にも小麦は人間にとってとても都合の良い食物であり、ゆえにここまで世界的に繁栄したと本書で述べられています。

しかし都合のいいことだけではありません。小麦はお米のように炊いて粒食することはありません。というのもお米の精米のように完全に胚乳のみにすることが困難なのです。ゆえに小麦粉にして加工することになったのですが、その苦労が人間の文明を進めたといえると本書は語ります。小麦が食品になるまでには、粉挽き、発酵、加熱、といった過程がありますが、粉挽きは技術的な発展(人間の手による粉挽き→風車→機械式ローラー)を、発酵は化学的な発展(酵母菌の発見)をもたらしたと言えます。今日のパンや麺など小麦食品の製造は、産業革命以前より多く、より安定した質で、よりはるかに効率的になっています。いつも立ち寄るコンビニのパンひとつとっても、そこに人類の発展が見て取れます。

こういった人類史関連の書籍を読むにつけ、人類の進化・発展に感嘆しつつ「人間ってホントに恐ろしいほど欲深い生き物だなあ」と怖くなります。より便利になっていくこのレースはいつまで続くのかなあと漠然と不安になりながらも、私はパンをかじり、立ち食いうどんをすすり、ホワイトソースのパスタをフォークに巻きつけてこれからもお腹を満たしていきます。食後にケーキもあれば嬉しいと思っちゃいますね。

これからの子供たちを応援したくなる一冊。ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

イギリスに暮らす母である著者と、息子と(ときどきオトン)のふれあいを描いたノンフィクションエッセイ。とても読みやすくスイスイ読めます。しかし文章の軽やかさに対し、物語が持つメッセージはとてもシリアスで重厚。イギリス社会に根を張る差別意識や階級意識について、息子さんの目線、母の目線、移民の目線、日本人の目線、様々な目線で語られます。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ/新潮文庫/2021年)

日本で暮らす私は、人種差別を日常的に肌で、自分ごととして感じることはありません。SDGs、多様性という言葉は今やあらゆるメディアに溢れてはいるけれど、リアルな世界では今もレイシズムや、貧富格差による分断がハッキリとあり、多様性を認める世界にはまだ遠いことをこの本で学びました。イギリスでは日本の比ではないレベル、子供が通う学校でさえも常態化しているレベルで分断が起こっていて、教室の中も外も階級闘争が仕組まれている。子供の頃からこんな中をサバイブしなければならないのか!と気の毒に思います。

読み進めるうちに、分断を続けるのではなく、違う立場にいる相手の気持ちになる共感能力が大事だと気付かされます。未来に向け世界は多様性を認めることを目標に掲げました。自分と違う者を同化し画一化し、画一化できない者は排除するという前時代的なムーブメントではなく、違う者と違うまま共存すること。これにはエンパシー(≒シンパシー)という能力が必要になってきます。エンパシーは誰かの靴を履いてみること、相手の立場になる能力。多様性を学ぶ包括的教育が今後必要になるでしょう。ジェンダー意識、セクシュアリティ、文化や価値観の違い、etc、etc。これからの私たちと子供達は、学ぶべき考えや取り組むべきミッションが山盛りですが、大変なぶん絶対に未来は明るくなると信じたい!これからの子供たちを応援したくなった一冊です。

しかし、著者の息子さんは時に洒落たユーモラスな言動をし、時に大人もハッとするような聡明な考察をしてみせる。子供の頃の私自身より遥かに大人びたセンスの持ち主だなあと感心しきりですが、それはブレイディさんがお子さんに対して素直な態度で、フラットな関係を築いているからかもなあと思いました。子供と大人の間に線を引いていないように感じ、子供に対しても素直に尊敬を表している。私もそうありたいと思います。

本は漢方薬のように、じんわり強くしてくれる。頭木弘樹『絶望読書』

難病によって長い期間、絶望の中を過ごした著者自身の体験から「読書は命綱である」というメッセージが込められたベストセラー。エッセイが全体の半分、もう半分はブックガイド(映画やTVドラマも含まれる)といった構成です。日常的に本に触れてない人、まさに今絶望の只中にいる人に向けられていて、とても易しい、かつ優しい文体で読みやすいです。

『絶望読書』(頭木弘樹/河出文庫/2018年)

絶望からの立ち直り方の指南書ではありません。絶望の期間をどう過ごすのかに焦点を当てていて、それには読書がピッタリ、とりわけ絶望的にネガティブな作品がよいと著者は語ります。確かに絶望している人間に、ポジティブシンキングを押し付けてもうまくいかないかもしれません。自分と同じように後ろを向いてくれるような作品の方が自然と体が受け付けることもあります。他人から悪趣味と思われるようなものが、メジャーな価値観から漏れてしまった人間を優しく受けとめてくれることもありますよね。

著者は絶望にフタをしたり、絶望してないふりをしたりする方がかえって危ないと言い、絶望を認めて、絶望に浸って、絶望している自分と向き合うことが大事だと説きます。絶望を受け入れて付き合っていく時に、本がそばにいてくれるだけで救われると語り、私もまさにその通りと深く頷きました。人間のように変なアドバイスもなく、急な来訪もない。こっちが勝手に求めれば、ページを開いてくれる。本は人間に寛容です。

私も10代から20代頭までは読書を趣味としていましたが、いつの間にか本を読まなくなっていました。しかし30代のある時に思い悩み、もう何年も離れていた本にすがりつきました。理由は分かりませんが、なぜか必死に本に手を伸ばしたことを覚えています。いつも絶望が頭の容量の大半を占めているため、文章が長かったり、少しでも小難しいと頭に入ってきません。目で文字は追えますが、視線が通り過ぎたそばから意味が散らばってしまい、「あれ、なんだっけ?」ともう一度ひとつ前の文から読み直すほどに、絶望中の読書は難しいです。しかも一冊をやっと読み終えて、自分の糧になったと実感できるのは内容の1%にも満たないかもしれません。それでも必死になって本を読んだことを思い出しました。

この「絶望読書」を手に取った時の私の目当ては、作者オススメのブックガイドだったのですが、全部でたった10作品と少なく思いました。そして著者の文体の熱量もひかえめに感じました。普段本に触れない人や絶望中の方の負担にならないよう薄味にしたのかなと思うのですが、個人的にはブックガイドは個人の偏執や思い入れたっぷりに、コレも紹介したいアレも紹介したいという情熱が溢れているものが好みです。この本の続編『絶望図書館』が私の好みにおそらく応えてくれそうなので、そちらもチェックします。

人生の問題に即効性と有効性がありそうな、生き方指南やビジネス教養などの書籍もありますが、自分の人生に一見なんの関わりのなさそうな本ほど、時間をかけてじんわりと効いてくる実感があります。私にとって読書は漢方薬のようなものです。少しずつ強くしてくれます。

「雑草魂」は力強さのことではなく、多様性のことだった! 稲垣栄洋『雑草はなぜそこに生えているのか』

「雑草魂」という言葉があるように、雑草には力強いイメージがありますが、そんな雑草も実は巧みな戦略をもってサバイブしていることに、この本を読んで驚きました。

『雑草はなぜそこに生えているのか』(稲垣栄洋/ちくまプリマー新書/2018年)

商品として売り出される野菜や花などの作物は、人間があつらえてくれた良質な土壌に植えられ、人間の手で守られ、収穫時期や性質は一定に管理されています(今をときめく言葉「多様性」とは真逆!)。しかし雑草は当たり前ですが人に世話してもらえません。むしろ引っこ抜かれたり刈られたり、除草剤をまかれて邪魔者扱いです。しかしそんな雑草のことを嫌っている人間のそばでないと、雑草は生きられない。人間と雑草は不思議な関係なのです。

雑草はコンクリートのひび割れだの、ビルとビルの間など、人間に近いところでよく見かけるのですがそれには理由があります。人間にとって雑草と認定されている植物は、山林など豊かな自然の中では繁栄ができません。人間の目に癒しを与えてくれる緑は、その実、生存競争のるつぼであり、その過酷さは私の想像を遥かに超えていました。隣りの草花より少しでも多くの日光を浴びて、少しでも多くの養分を土から得なければならない。土の上でも土の中でも銃弾が飛び交っている戦場のなかでは、雑草は他の植物に負けてしまうのです。力強いイメージの雑草は、意外にもかよわいものだったのです。

人間のそばに生きる道を見つけた雑草は、他の強い植物たちから逃れ、安住しているように思えますが、そこは人間の暮らす場所。人間の都合でいとも簡単に荒らされます。道端に咲いていても道路工事で掘り起こされ、畑に芽吹いても耕され、、、。しかし雑草たちは長い人間との共存の末に多様性を身につけます。同じ品種でも芽が出る時期をずらしたり、虫や風などによる受粉が叶わない場合は、最悪自分の雄しべと雌しべで自家受粉して種を残すなど、人間社会の変化に対応してどんな過酷な状況でも粘り強く花を咲かせ、種を残そうとします。「雑草は抜いても抜いても生えてくる」と言われますが、それは力強い一点突破の生命力ではなくその逆、変幻自在の多様性のたまものだと本書を読んで分かりました。

しかし、この本を読んでいると人間はこんなに雑草のことを嫌って対策を練っているはずなのに、それがまるで雑草の進化を手助けしているかのように思えてきます。人間と自然の関係性は一筋縄ではいかないものだとしみじみ思います。

何も考えずただ生えているだけに見える雑草。しかしその実は戦略に満ちた生を送っていることが本書で分かりました。ひるがえって、人間も生きてるだけで戦略的で、生に対して充分アクティブなのかもしれないと思います。今を生きている全ての人々は、たとえ社会の役に立っている実感がなくても、誰かのために生きられなくても、人生がステップアップできていると思えなくても、輝いていなくても構わない。「なんにもせずただ生きてるだけ」という人がいるとしても、それは「なにもしない」ことが自分にとって有利だという無意識な戦略をとっているとも言えます。個体は生きてるだけ、自分を生かしているだけで生物としての生を全うしていると思います。人間という「種」の単位でなく、いち人間、いち個人という立場で語るなら「こう生きたい」という希望はもちろんありますけど、いち生物としては生きてるだけでアクティブだと思います。そう思えたら色々とラクになれそうじゃないですか。