カッコ悪いところを見せられることが、一番かっこいいのに。河野啓 『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』

話題性とユニークなキャラクターで一躍有名になり、「No Limit」「否定という壁への挑戦」という言葉を掲げてエベレスト登頂を目指すも、2018年に山中で滑落、不慮の死を遂げた栗城史多さん。彼の活動初期を共にしていたTVディレクターによるノンフィクションです。

『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』(河野啓/集英社文庫/2023年)

栗城さんのことは存命中から知っていましたが、いいイメージではありませんでした。巧みな営業力で有名企業から援助として莫大な金を調達し、おかげで何度もエベレストに挑戦できているけど、実力もトレーニングも不足しているから毎度失敗し、時には登山データの改ざんも図るといった体たらくのため、アンチからは皮肉を込めて「下山家」と呼ばれている等、今でもインターネットを開けばいい側面よりも悪い側面のほうが目立っている様相です。

栗城さんの登山界におけるポジションは、美術界におけるラッセンのようなものではないでしょうか。栗城さんは登山界の権威からはほとんど無視されているけれど、世間の大多数の人には絶大な認知度がありました。登山に興味のない人の中で、栗城さんの名前は知っていても、他の登山家の名前を挙げられる人はほとんどいないでしょう。美術界からは黙殺されつつ、普段美術に触れない人をターゲットに飛ぶように絵が売れたクリスチャン・ラッセンと同じ、界隈からの孤立と世間からの称賛。それだってもちろん凄いことですが、一方ではオーセンティックではない、正統派ではないというイメージは免れられないでしょう。

著者はこの本を書くにあたって、栗城さんの学生時代の山岳仲間や恩師、ビジネスで関わった相手、サポートしたシェルパなど多くの方の話を伺っています。おかげで本書には栗城さんの来し方、取り巻く状況や登山記録などが丁寧に書かれています(後半の占い師やイタコの登場といったあまりにもなオカルト展開には面食らいました。原始から山は霊的な場所とされ、山こそスピリチュアルそのものではあるのだけど、、、。つくづく栗城さんは理屈の人ではないんだなあ)。

でもこの本を読んでも栗城さんの真意はつかめません。栗城さんの一番そばにいて、今も事務所を守っている元マネージャー小林さんからの証言を得られなかったこともその理由のひとつかもしれませんが、そもそもの話、生前の栗城さんのインタビューなどを読んでも、私は彼に共感できることは一切ありませんでした。なんで嘘をついてまで「単独」「無酸素」にこだわったのか。それこそエベレスト、登山そのものになんでこだわったのか(晩年、登山が好きだったかどうかさえ疑わしいのに)。なぜ「正統派」側の評価軸を手放さなかったのか。別の方法なら誰もが文句を言わない、かつ栗城さんだけがなし得る輝き方は絶対にあったはずなのに。栗城さんは聞こえのいい言葉を盾に、裏にあるカッコ悪い姿、それも含めた「真意」を必死に見せないようにしていると感じました。臆病な人だったのでしょうか。純粋な人たちの応援を反故にする恐怖があったのでしょうか。

本書にある言葉のひとつに、私は強く共感します。「かっこ悪いから、かっこいいのだ」。栗城さんは自分のカッコ悪い姿を晒すことを避けて、繕おうとした。カッコ悪いところを見せられることが一番かっこいいのに。しかし同時にこの言葉は私にも突き刺さるものであって、カッコ悪いところを晒すのはとても勇気がいることと、つくづく身につまされる心持ちがしました。

栗城さんのファンは彼が亡くなった後、どのような感情を抱いたのでしょうか。没後、彼の写真展示会が催された時の記事や動画を拝見しました。場内にはファンが訪れ、設置されたメッセージスペースには来場者から栗城さんへの言葉が書かれていて、「ありがとう」「感謝」「憧れです」など、真っ白いスペースが美辞麗句で埋め尽くされた中、目に飛びこんできたひとつのメッセージがとても印象的だったのです。

「死んじゃダメなのに」

自分に対する苦言を最後まで受け入れなかった栗城さんを気遣いつつ、追悼ムードに水をさしかねないギリギリのラインで伝えようとする、書いた人の意思を強く感じるメッセージでした。賞賛ばかりの世界は不健康(アンチばかりも然り)です。そんなメッセージがあったことにホッとしたことを覚えています。

ダウンタウンの"トカゲのおっさん"の源流ってコレ? フランツ・カフカ『変身』

『変身』(フランツ・カフカ/川島隆 訳/角川文庫/2022年)

私はこの作品が世界的に有名になって以後に生まれました。いくら読んだことがなくても、それなりの年数を送ってきた人生の中で『変身』がどんな物語なのか1ミリも知らない、という方が難しいでしょうから、どこまで新鮮に楽しめるかが気になりましたが、結果的にはとても楽しく読めました。ちなみに私は「主人公がある日、虫になった」としか知りませんでした(「しか」と書きましたけど、それがほぼ全てだった、というのが読後の印象)。

『変身』の新訳版が出たと聞き、海外の純文学に不慣れな自分でも読みやすいかなと手に取ったのがキッカケでしたが、その予想はドンピシャ当たりました。とても読みやすい!と言っても他の訳を読んでいないので比較はできませんが。

物語の舞台はずっと主人公の実家、9割以上が主人公の部屋の中です。しかし閉塞感や停滞は感じませんし、ストーリーの割に文体そのものには重さがなく、文章のテンポも一定で、まったく絵変わりしないのに不思議と飽きずにサクサク読めます。

ネタバレになりますが、印象的だったのは最後の場面です。訳者解説でも触れられていますが、それまでは地の文で「父親」「母親」「妹」と書かれていたのが、主人公が死んだ瞬間から先は「ザムザ氏」「ザムザ夫人」「グレーテ」に置き換わっていて、主人公と家族の関係性が完全に断ち切られたことが文体そのものから明確に伝わり、残酷さが際立っています。生前の主人公に対する疎みや憎しみを隠さなくなっていった家族の描写も怖いですが、まるで最初から主人公なんて存在していなかったかのような白々しい晴れやかさに溢れているラストの方が圧倒的に恐ろしいです。まるでマネキンが演技しているような絵が浮かんでゾッとします。

読後ネット検索して、『変身』には古今さまざまな解釈があることがわかりました。私には実存主義やシオニズムなど難しいことは分かりませんが、様々な解釈が可能なくらい、メッセージがない空っぽなもの(ディスじゃないつもりです!)なのでは?と思いました。カフカが読者の解釈をリードするような意図もまるで感じません。シュールなコントを見てるような気分で、『ダウンタウンのごっつええ感じ』の後期の名作コントとされている『トカゲのおっさん』にも似た不条理性を感じました。

私もあえて何か見立てのようなことをするとしたら、ストレスによる心身の不調から、主人公が自分が虫になったと思いこんだ物話ではないのかと想像しました。朝、目を覚ますと出発時間をとうに過ぎており、体を起こそうにも虫の体躯に慣れていなくて起き上がることも困難な様子は、抑鬱状態で朝がつらい人の典型に見えます。虫の脚からでる毒液が、部屋をはいずりまわったせいで部屋の床や壁にこびりついた描写がありますが、それはトイレで排泄をすることが叶わなくなった主人公の便だったりするのかなーとか。

なぜ虫になったのかの理由は明かされず、遠因を匂わせるようなことも一切なく、気持ちいい不条理さでした。出だしの一行目からもう虫になっているのもとても気持ちがよくて思わず吹いてしまいました。唐突すぎる!っていう(笑)

巻末(と言うにはページ量が多すぎる!"併載"と言うべきか)の訳者解説も本編と同じくらい読み応えがあり、はじめてカフカに触れるカフカ入門者にもうってつけです。

人間と小麦の切っても切れない関係!大塚滋『パンと麺と日本人 小麦からの贈りもの』

説明不要の大ベストセラー「サピエンス全史」を読んだ時に様々な気付きがあったのですが、中でも「農耕に出会って以降、人類は穀物に家畜化された」という視点がショッキングで頭に残りました。農耕により定住し面倒を見続けることが必須になり、食の大部分を穀物に頼った仕組みができあがってしまったと。この理論でいくと地球の覇者は小麦ということになります。そんな小麦がどのような形で人類と(特に日本人と)歴史を歩んできたかをより深く知りたいと思い、この本を手に取りました。

『パンと麺と日本人 小麦からの贈りもの』(大塚滋/集英社/1997年)

ただの雑草のひとつだった小麦が人間に見つかり、栽培され加工され、今日では小麦食品が口にされない日はありませんが、世界で主食とされるものとしては小麦をふくむ穀類のほかにイモ類があります。穀類とイモ類をくらべた時に、穀類は同じ量のイモよりもカロリーが高く、そのままだと腐ってしまうイモにくらべて保存もきき(保存ができる=富・財力になる)、計画的・集中的な生産も可能であることから、栄養面、経済面そして社会的にも小麦は人間にとってとても都合の良い食物であり、ゆえにここまで世界的に繁栄したと本書で述べられています。

しかし都合のいいことだけではありません。小麦はお米のように炊いて粒食することはありません。というのもお米の精米のように完全に胚乳のみにすることが困難なのです。ゆえに小麦粉にして加工することになったのですが、その苦労が人間の文明を進めたといえると本書は語ります。小麦が食品になるまでには、粉挽き、発酵、加熱、といった過程がありますが、粉挽きは技術的な発展(人間の手による粉挽き→風車→機械式ローラー)を、発酵は化学的な発展(酵母菌の発見)をもたらしたと言えます。今日のパンや麺など小麦食品の製造は、産業革命以前より多く、より安定した質で、よりはるかに効率的になっています。いつも立ち寄るコンビニのパンひとつとっても、そこに人類の発展が見て取れます。

こういった人類史関連の書籍を読むにつけ、人類の進化・発展に感嘆しつつ「人間ってホントに恐ろしいほど欲深い生き物だなあ」と怖くなります。より便利になっていくこのレースはいつまで続くのかなあと漠然と不安になりながらも、私はパンをかじり、立ち食いうどんをすすり、ホワイトソースのパスタをフォークに巻きつけてこれからもお腹を満たしていきます。食後にケーキもあれば嬉しいと思っちゃいますね。

これからの子供たちを応援したくなる一冊。ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』

イギリスに暮らす母である著者と、息子と(ときどきオトン)のふれあいを描いたノンフィクションエッセイ。とても読みやすくスイスイ読めます。しかし文章の軽やかさに対し、物語が持つメッセージはとてもシリアスで重厚。イギリス社会に根を張る差別意識や階級意識について、息子さんの目線、母の目線、移民の目線、日本人の目線、様々な目線で語られます。

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ/新潮文庫/2021年)

日本で暮らす私は、人種差別を日常的に肌で、自分ごととして感じることはありません。SDGs、多様性という言葉は今やあらゆるメディアに溢れてはいるけれど、リアルな世界では今もレイシズムや、貧富格差による分断がハッキリとあり、多様性を認める世界にはまだ遠いことをこの本で学びました。イギリスでは日本の比ではないレベル、子供が通う学校でさえも常態化しているレベルで分断が起こっていて、教室の中も外も階級闘争が仕組まれている。子供の頃からこんな中をサバイブしなければならないのか!と気の毒に思います。

読み進めるうちに、分断を続けるのではなく、違う立場にいる相手の気持ちになる共感能力が大事だと気付かされます。未来に向け世界は多様性を認めることを目標に掲げました。自分と違う者を同化し画一化し、画一化できない者は排除するという前時代的なムーブメントではなく、違う者と違うまま共存すること。これにはエンパシー(≒シンパシー)という能力が必要になってきます。エンパシーは誰かの靴を履いてみること、相手の立場になる能力。多様性を学ぶ包括的教育が今後必要になるでしょう。ジェンダー意識、セクシュアリティ、文化や価値観の違い、etc、etc。これからの私たちと子供達は、学ぶべき考えや取り組むべきミッションが山盛りですが、大変なぶん絶対に未来は明るくなると信じたい!これからの子供たちを応援したくなった一冊です。

しかし、著者の息子さんは時に洒落たユーモラスな言動をし、時に大人もハッとするような聡明な考察をしてみせる。子供の頃の私自身より遥かに大人びたセンスの持ち主だなあと感心しきりですが、それはブレイディさんがお子さんに対して素直な態度で、フラットな関係を築いているからかもなあと思いました。子供と大人の間に線を引いていないように感じ、子供に対しても素直に尊敬を表している。私もそうありたいと思います。

本は漢方薬のように、じんわり強くしてくれる。頭木弘樹『絶望読書』

難病によって長い期間、絶望の中を過ごした著者自身の体験から「読書は命綱である」というメッセージが込められたベストセラー。エッセイが全体の半分、もう半分はブックガイド(映画やTVドラマも含まれる)といった構成です。日常的に本に触れてない人、まさに今絶望の只中にいる人に向けられていて、とても易しい、かつ優しい文体で読みやすいです。

『絶望読書』(頭木弘樹/河出文庫/2018年)

絶望からの立ち直り方の指南書ではありません。絶望の期間をどう過ごすのかに焦点を当てていて、それには読書がピッタリ、とりわけ絶望的にネガティブな作品がよいと著者は語ります。確かに絶望している人間に、ポジティブシンキングを押し付けてもうまくいかないかもしれません。自分と同じように後ろを向いてくれるような作品の方が自然と体が受け付けることもあります。他人から悪趣味と思われるようなものが、メジャーな価値観から漏れてしまった人間を優しく受けとめてくれることもありますよね。

著者は絶望にフタをしたり、絶望してないふりをしたりする方がかえって危ないと言い、絶望を認めて、絶望に浸って、絶望している自分と向き合うことが大事だと説きます。絶望を受け入れて付き合っていく時に、本がそばにいてくれるだけで救われると語り、私もまさにその通りと深く頷きました。人間のように変なアドバイスもなく、急な来訪もない。こっちが勝手に求めれば、ページを開いてくれる。本は人間に寛容です。

私も10代から20代頭までは読書を趣味としていましたが、いつの間にか本を読まなくなっていました。しかし30代のある時に思い悩み、もう何年も離れていた本にすがりつきました。理由は分かりませんが、なぜか必死に本に手を伸ばしたことを覚えています。いつも絶望が頭の容量の大半を占めているため、文章が長かったり、少しでも小難しいと頭に入ってきません。目で文字は追えますが、視線が通り過ぎたそばから意味が散らばってしまい、「あれ、なんだっけ?」ともう一度ひとつ前の文から読み直すほどに、絶望中の読書は難しいです。しかも一冊をやっと読み終えて、自分の糧になったと実感できるのは内容の1%にも満たないかもしれません。それでも必死になって本を読んだことを思い出しました。

この「絶望読書」を手に取った時の私の目当ては、作者オススメのブックガイドだったのですが、全部でたった10作品と少なく思いました。そして著者の文体の熱量もひかえめに感じました。普段本に触れない人や絶望中の方の負担にならないよう薄味にしたのかなと思うのですが、個人的にはブックガイドは個人の偏執や思い入れたっぷりに、コレも紹介したいアレも紹介したいという情熱が溢れているものが好みです。この本の続編『絶望図書館』が私の好みにおそらく応えてくれそうなので、そちらもチェックします。

人生の問題に即効性と有効性がありそうな、生き方指南やビジネス教養などの書籍もありますが、自分の人生に一見なんの関わりのなさそうな本ほど、時間をかけてじんわりと効いてくる実感があります。私にとって読書は漢方薬のようなものです。少しずつ強くしてくれます。