空は青く、緑はむせかえるように萌え、しだいに湿り気を帯びた美しい夏の気配……と、相も変わらずの耐え難い暑さに包まれはじめた今日この頃ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
暑さにめっぽう弱いわたしは、窓を開け風を通した自室にすっかり引きこもりがちになっています。そんな部屋の中で、本棚に並べてあった蔵書をふたたび紐解いてみたりしているうちに、いつかこの場で紹介したいと思っていた一冊がふと目に入ったので、この機に記事を書くことにしました。
須賀敦子先生の、本と読書と、それらと共にあった人生にまつわる慈しみに満ちたエッセイのまとめられた『塩一トンの読書』。
すぐれた文章家の書く文は、不思議とそれぞれ特有の雰囲気を漂わせるものですが、須賀先生の著作からは、温かい静寂に満たされた夏のそれが感じられるように思います。ただし、匂い立つような熱気のまとわりつく日本の夏ではなく、想像の中のイタリアの夏の、からっと晴れわたり、穏やかでオレンジがかった光に満ちた昼下がりから夕暮れにかけて。
写真の河出文庫版『塩一トンの読書』は、タイトルのフォントや写真といったカバーデザインもそんな文章の雰囲気にひっそりと寄り添っていて、けっして華美ではないけれど落ち着いた存在感のある一冊に仕上がっています。
特徴的なタイトルは、作者の姑さんが口癖のように用いたという「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」という言葉から。作者はこの言葉を幾度も思い返し、古典文学を読み解こうとする際にもこの心持ちで挑まれたそうです。
収録されたエッセイのひとつ『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』における、計り知れない知性と教養に支えられた『細雪』論などを読んでいると、とほうもなく遠いひとに思われてくる須賀先生ですが、
記憶のなかの本。むかし読んだ本を、まるで反芻するようにおもいだして、一日のふとした時間のなかで、その感動にひたることがある。
終結部分(電車の中で読んでいて、そこだけは家に帰って読むことにした)はすばらしい。
というところなど、端正なエッセイの中、ふと彼女の日常のにじむ箇所には、語り手である彼女にそっと指先が触れたかのように共感できるところもあり、また、タブッキの『インド夜想曲』とフェルナンド・ペソアという詩人についてのエッセイの中の、
ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。
という記述に、「ふたつの言語をもつ」などとはとても言えない未熟者の外国語学習者であるわたしでさえも、大学に入ったばかりの頃、辞書とにらめっこする毎日にふと不安になり、学校の授業のための本以外では鏡花全集ばかりめくっていた時期があったなあとぼんやり思い出されたり。そんな身につまされるフレーズもふと織り込まれているものだから、読み終わって本を閉じたときには、どこか不思議な読後感が残ります。
それにしても、作者の回想の中、彼女を愛し彼女に愛された人々の、まるですぐそこにいるような、ちょっとした表情の動かし方や話すリズムさえ伝わってきそうな描かれ方といったら。一冊一冊と一トンの塩を共に舐めようとするようなエッセイを読むにつけても、愛情深い方だったのだなあとしみじみ偲ばれます。
『ユルスナールの靴』にある幼少期の回想曰く、いつも大きめの下駄を買い与えられころころと転んでばかりいたらしい少女が、人を教え導く凛とした女性になってゆく道のりを、彼女がなにを慈しんで生きたのかを、常に彼女のそばにあり続けた本についての真摯な語りを通して垣間見ることのできる幸いには、いくら感謝してもたりないほどですね、ほんとうに。
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