ひろく、ゆるくつながることが重要。『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』

『人間関係を半分降りる 気楽なつながりの作り方』(鶴見済/筑摩書房/2022年)

孤立はよくない、でも人付き合いに疲弊するのもよくない。半分だけ降りて、ほどよい距離でゆるく繋がれるサードプレイスを見つけることが大事だと思いました。

昔のクイックジャパンを読んでいたし、もちろん大ベストセラー「完全自殺マニュアル」の作者として鶴見さんのことを知ってはいたけれど、この本を読むまでは、鶴見さんに対して、ポップで先鋭的でいかにも90年代に売れた作家ってイメージを持っていました。

読後、まずここまでご自身のことを素直に語られていることに驚きました。家庭のことや現在のことまで、ご本人もここまで書いたのは初めてだと書かれています。

人間関係で苦しんだ果てに鶴見さんがたどり着いたのは「近すぎない、ほどよい距離でゆるくつながること」です。

人間関係は濃密であることがいいとされているところがあります。はたしてそれは本当でしょうか。本書によると、血縁至上主義は大正時代に生まれた価値観であるとのことです。近しいことが心地よければ言うことはありませんが、近ければ近いほど、憎しみも比例して増えます。

鶴見さんご自身でも、ゆるく程よい距離感でつながれる場を提供する運動をおこしています。このあたりはphaさんとも共通するムーブメントですね。サードプレイス、フォースプレイスのありがたさは私も生活の中で実際に強く感じています。

そもそも発売当時に社会問題にまでなった「完全自殺マニュアル」も、「いざとなればこの本に書いてあるように簡単に死ねる」と思うことで気持ちをラクにさせるような、ほんのり優しいメッセージが込められた本でした(90年代悪趣味カルチャーと結びついたことがイメージダウンの一端かも?)。30年の時を経て、この本とも根底では繋がっていることを感じました。

親と子は愛情で深くつながっていることが正解、若い頃に恋愛をしておくのが正解、早く童貞を捨てないと恥ずかしいなど、人間関係に正解があるかのような考えがごく自然に溢れていますが、それを一度疑ってみること。そうすれば、生きることがラクになれるヒントが見えてくるかもしれません。

「ずっと避けてきてごめんなさい」と、獅子文六先生に謝りたいです。獅子文六『青春怪談』

獅子文六の作品は長いあいだ絶版となっていましたが、近年再評価の流れで一気にその名を知られるようになりました。ちくま文庫のポップな装丁も手伝ってか特に若い層に評判は広がり、一時期ヴィレヴァンの文庫本コーナーで頻繁に見かけたことを覚えています。

ミーハーなのに通ぶりたい人間の典型であった若い頃の私は、このポップかつサブカル受けしていたであろう獅子文六作品を、無視できないくせに避けていました。しかも目に飛び込んできたタイトルが「コーヒーと恋愛」。このタイトルだけでウヒーとむず痒かったのです(正直今でもむず痒さはゼロではないです)。若い時分はもっとコアなものを求めていたのですが、それはとても浅はかで愚かな考えだったと思います。

先日ひさしぶりに獅子文六の名を本屋で見かけ、経年とともに多少は自分の愚かさもマシになったのか、自然と手が伸びました。そしてこの「青春怪談」と出会ったのです。とても面白い小説で、この出会いを逃していた若い頃の自分はやはり愚かであったと反省しました。古臭さは一切感じず、むしろ現代にフィットする内容に驚きました。

『青春怪談』(獅子文六/ちくま文庫/2017年)

ストーリーの大筋は、一時期のTVの昼ドラのように愛憎入り乱れた恋愛ものとも言えますが、けしてドロドロとしていません。いかにも純文学な堅苦しさもなく、ユーモラスで飄々とした作風でスッキリと読みやすいです。戦後日本のレトロモダンな雰囲気もありますが、過剰でなく、必要以上に装飾的ではありません。現代との差を感じない普遍的な人間の生活や情動を描いています。

ビー玉が斜面を転がるような読みやすさですが、時にピタリと目が留まり、ため息がでるような胸を打つ文章表現もあります。感嘆のあまりうめきながら本を閉じ、一時のあいだうずくまってしまったほどです(本当に)。獅子文六を避けていた若き自分を呪いました。以下に抜粋します。

”厭世は、大事件である” (208p)

バレリーナの千春が困難にぶつかり深く落ち込み、鬱状態にある場面の一文です。鬱状態にあると自分自身も含め、世の中がどうなっても構わない気持ちになります。それは確かに自分の世界を揺るがす、文字通り「大事件」なのです。仕事や家事より、何よりも優先して心を配らなければいけない一大事なのです。自分の内なる声を無視するのでなく、「これは大事件だ」と自分の声に耳を傾ける必要があるのです。シンプルですが力強く励まされるように響く一文でした。

また、千春を慕う後輩バレリーナの藤谷新子が、千春のボーイフレンド・慎一に嫉妬の炎をあげるシーンでもため息が出ました。以下抜粋。

”慎一が、無比の強敵であることを、彼女は、よく知ってる。第一に、彼は、男性である。つまり、官軍である。その上、稀代の美男子ときている。錦の御旗を掲げた、水爆機の如きものである。これに対する彼女は、ただ熱情と献身の竹槍しかない”(211p)

”ただ熱情と献身の竹槍しかない” ときた!なんて憎らしいぐらいに上手い表現なんだろう。絶対に勝てない、愚かな挑戦であることが伝わりますし、「熱情と献身」イコール「竹槍」という比喩が膝を打つほど絶妙です。実際に戦中の日本で、国民が竹槍でB29爆撃機を撃墜しようと練習していた史実も連想され、藤谷新子の不憫さを表現するのにこれ以上のものはないとすら思えます。

また獅子文六は、この作品のテーマのひとつとしてジェンダー論にも果敢に触れています。それが現代的に正しいかどうかは置いておいて、1950年代に新聞連載の小説で取り上げるのはかなり新鋭的だったのではと思います。

巻末の付録記事のなかでやたら「新聞小説、新聞小説というけど、普通の小説と変わらない」という獅子文六自身の言説が頻繁に出てきます。新聞連載の多かった獅子文六は、「新聞小説」と揶揄されることがよっぽど疎ましかったのだろうなと思います。大衆的だと軽視されていたこともあったのかもしれません。獅子文六を軽んじていた若い頃の私に言われているようで、最後にあらためて反省しました。

ふたりの動物学者による、動物への愛に溢れたユーモラスな二重奏。コンラート・ローレンツ『ソロモンの指環 動物行動学入門』

動物行動学の第一人者で、動物の"刷り込み"の研究で知られるコンラート・ローレンツの1949年刊行の名作です。
動物との微笑ましい交流と、動物の行動に見られる不思議さが描かれます。堅苦しさのない軽やかな文体で、エッセイのように楽しめます。翻訳の日高敏隆先生もまた温和な動物行動学者で平易な文体の方なので、この読みやすさは著者と翻訳者による、ユーモラスな人柄の二重奏によるものかもしれません。

『ソロモンの指環―動物行動学入門』(コンラート・ローレンツ/日高敏隆 訳/ハヤカワ文庫/1998年)

鳥や魚、犬たちに囲まれて暮らす動物行動学者である著者は、動物にメスを入れたり薬を飲ませたりという実験をせず、その行動をつぶさに観察しますが、その暮らしは驚きとトラブルと感動にあふれています。
刷り込みによって生まれたてのハイイロガンのヒナの母親になってしまい、ヒナが独り立ちするまで片時も離れられずになってしまったり、幼き我が子に動物による危険がないように、"我が子のほうを"檻に入れたり、町中でオウムを呼ぶためにオウムの鳴き声を出して周りに白眼視されたり等、、、楽しみながら動物の不思議さを知ることができます。

動物たちは、人間が思っている以上にこちらをつぶさに観察していると作中で書かれています。著者のように動物と会話できなくても、表情や挙動からこちらの気持ちや次の行動を読んでいるのです。これには私も確かに思い当たることがあります。私の実家の犬は「散歩にいこう」と口にせずとも、リードが置いてある棚の方向へ歩き始めた時点で散歩に行ける喜びで飛び上がります。さらに驚くことに、いつもの散歩ではない特別なお出かけ(キャンプ等)の時は、家族はいつもどおりソファから立ち上がっただけにも関わらず、彼は普段の何倍もハイテンションに鳴き声をあげ、半狂乱になって喜びを放出させます。

作品全体はユーモラスなエピソードに彩られつつも、最後の章「モラルと武器」で著者は読者にシリアスなメッセージを投げかけます。動物の争いについて触れているのです。オオカミ同士やイヌ同士など同種での争いの場合、旗色が悪くなってきた弱者は強者にあえて弱点をさらすような服従の態度をとります。その服従のポーズを取られた強者は、そういうルールやモラルがあるかのごとく、ピタリと攻撃をやめ、追い打ちをかけることができなくなってしまい、弱者を殺すことなく戦いは終結を迎えるのです。まるでレフェリーが割って入ったボクシングのように。しかしこれがクジャクと七面鳥といった異種の争いでは、服従のポーズが異なるために敗者が服従しても攻撃が終わらず、攻撃を受ければ受けるほど服従の姿勢を固めてしまい、果ては悲劇を迎えるという最悪な悪循環も紹介されています。

人間においても礼儀作法の中に、弱点をさらす服従の名残があります(お辞儀や脱帽など)。敗者・弱者が強者を抑制することは以前読んだ類人猿の本でも出てきました。地位の低いチンパンジーが、群れのボスにエサ場を譲ってほしいと近づくと、ボスは渋々場所を明け渡すといった習慣です。高度な知能と社会性を持った動物は、弱者に優しくあることが備わっているのでしょう。無防備に弱点をさらして「さあ殺せ」となると、殺しづらいのは人間も同じかもしれません。私は天安門事件の有名なシーン、戦車の群れと、その眼前に身一つで立ちはだかった一人の男性のにらみ合いが思い浮かびました。
この章の最後、"自分の体とは無関係に発達した武器をもつ動物が、たった一ついる。(中略)この動物は人間である"(p278)から始まる文章が、70年の時を超え、ロシア対ウクライナの戦争まっただ中である現在、いかにシリアスに胸に突き刺さることか。

あとこれもこの本を楽しむ上で大事な要素のひとつですが、著者(とアニー・アイゼンメンガー)の手による挿絵がかわいいんです!クラシックな名作絵本のような、過剰にデフォルメされていないのにかわいく、手書きの線の味わいがある数々のイラストたちも、読者を楽しませる立派な立役者です。

あとがきで初版刊行時の間違いや出版後の後悔などについて書いてあって、そういうとこも学者センセイ然としてなくて人間くさくていいです。「コンラートのおじさん、やっちゃった」って感じがします 笑。また現在では犬の祖先はオオカミと言われていますが、この本のなかで著者はオオカミ祖先とジャッカル祖先の二派に分かれる、と説いています。70年近く昔のものなので仕方のないことでしょうね。

「中島らも」「4時ですよ〜だ」「メンバメイコボルスミ11」にピンと来たら。岸政彦・柴崎友香『大阪』

中島らも、4時ですよ〜だ、阪神大震災、千日前、、、大阪のあの時代・あの場所を追体験しつつ、誰の人生にもある、けど普段は奥にしまっているような心の機微を思い出させてくれるエッセイです。

『大阪』(岸政彦 柴崎友香/河出書房新社/2021年)

社会学者・小説家の岸政彦さんと、小説家の柴崎友香さんの共著です。
進学で大阪に移り住み以降ずっと大阪在住の岸さんと、大阪で生まれて30歳を過ぎてから大阪を出た柴崎さん。大阪への思いを綴った両者のエッセイが交互に続く1冊。とても読みやすく、風景や人々、そして著者の心情が分かりやすく伝わってきます。

とくに柴崎さんのエッセイにビシバシとシンパシーを感じました。大阪の工業地帯に生まれ、80〜90年代関西カルチャーに浸かった青春を過ごした柴崎さんのエッセイには、「中島らも」「4時ですよ〜だ」「メンバメイコボルスミ11」「テアトル梅田」といったワードがちらほら。
私は柴崎さんと世代が違ううえに出身も関西ではないため、後追いで知った憧れのワードです。
大阪の工業地帯の商店街、自転車で向かう2丁目劇場、ミニシアター、ライブハウス、大丸など、読むだけで憧れの場所と時代を追体験できるような楽しさがあります。

都市への思い。そこにいる人への思い。街はそのまま人と重なり合う。人が街をつくり、街は人を育てる。
感情は一筋縄ではいかないものです。0か100では図りきれない。過去は憧憬や感傷だけじゃなく、家族も親愛や情愛だけじゃない。好きも嫌いもそれ以外も全部ふくめた上で、対象のことを思っている。

大阪出身で、大阪で心が彩られるような幸せな場面があったからこそ、大阪に異議を唱えたくもなる。柴崎さんの大阪への思いを読んで、ジョン・レノンの名言「ポールの悪口を言っていいのは俺だけだ」を思い出しました。

柴崎さんは愛憎を正直に書き表すことで、真摯であろうとしているように思えました。「この人のエッセイは信頼していい」と感じ、そのことがとても嬉しくなりました。信頼できる作家さんに出会えることは嬉しいことです。

小川雅章さんのカバーイラストも最高です。

かわいらしく、想像をふくらませる名タイトル! 遠藤寛子『算法少女』

実在する「算法少女」という江戸時代の書物は、とある父と娘により書かれた和算(当時の日本の数学)の書。この「算法少女」に着想を得た著者による、同じ「算法少女」というタイトルをつけた少年少女むけの時代小説です。児童文学なのでとても読みやすく、学問に打ち込むことの豊かさを感じることが出来ます。

『算法少女』(遠藤寛子/ちくま文庫/2006年)

 

個人的には、作中に出てくる数式で謎をとくような、数学ミステリ的からくりがあればさらにワクワクするストーリーになったかもと思いましたが、江戸人情にあふれているとてもいい物語です。江戸の町の楽しさだけでなく、宗派によって学問が分断されることや、育ち・身分で人間が分断されることの悲しさも自然に描かれます。主人公のあきが、屋敷通いの指南役でなく市井の塾講師を選ぶことで、本当に豊かであることとは何かを教えてくれます。

『算法少女』(遠藤寛子/ちくま文庫/2006年)

文庫版あとがきに、この小説版「算法少女」復刊をめぐる経緯が書かれているのですが、そのリアルストーリーが、本編のフィクションと重なるような不思議さを感じます。江戸期代に「算法少女」をしたためた娘とその父。本編の主人公あきとその父、そして著者とその父。3組の親子が、時空とフィクションの壁を超えてひとつに重なるのです。事実は小説より奇なりと言いますが、まさに小説になるような奇跡にため息がもれました。