動物行動学の第一人者で、動物の"刷り込み"の研究で知られるコンラート・ローレンツの1949年刊行の名作です。
動物との微笑ましい交流と、動物の行動に見られる不思議さが描かれます。堅苦しさのない軽やかな文体で、エッセイのように楽しめます。翻訳の日高敏隆先生もまた温和な動物行動学者で平易な文体の方なので、この読みやすさは著者と翻訳者による、ユーモラスな人柄の二重奏によるものかもしれません。
鳥や魚、犬たちに囲まれて暮らす動物行動学者である著者は、動物にメスを入れたり薬を飲ませたりという実験をせず、その行動をつぶさに観察しますが、その暮らしは驚きとトラブルと感動にあふれています。
刷り込みによって生まれたてのハイイロガンのヒナの母親になってしまい、ヒナが独り立ちするまで片時も離れられずになってしまったり、幼き我が子に動物による危険がないように、"我が子のほうを"檻に入れたり、町中でオウムを呼ぶためにオウムの鳴き声を出して周りに白眼視されたり等、、、楽しみながら動物の不思議さを知ることができます。
動物たちは、人間が思っている以上にこちらをつぶさに観察していると作中で書かれています。著者のように動物と会話できなくても、表情や挙動からこちらの気持ちや次の行動を読んでいるのです。これには私も確かに思い当たることがあります。私の実家の犬は「散歩にいこう」と口にせずとも、リードが置いてある棚の方向へ歩き始めた時点で散歩に行ける喜びで飛び上がります。さらに驚くことに、いつもの散歩ではない特別なお出かけ(キャンプ等)の時は、家族はいつもどおりソファから立ち上がっただけにも関わらず、彼は普段の何倍もハイテンションに鳴き声をあげ、半狂乱になって喜びを放出させます。
作品全体はユーモラスなエピソードに彩られつつも、最後の章「モラルと武器」で著者は読者にシリアスなメッセージを投げかけます。動物の争いについて触れているのです。オオカミ同士やイヌ同士など同種での争いの場合、旗色が悪くなってきた弱者は強者にあえて弱点をさらすような服従の態度をとります。その服従のポーズを取られた強者は、そういうルールやモラルがあるかのごとく、ピタリと攻撃をやめ、追い打ちをかけることができなくなってしまい、弱者を殺すことなく戦いは終結を迎えるのです。まるでレフェリーが割って入ったボクシングのように。しかしこれがクジャクと七面鳥といった異種の争いでは、服従のポーズが異なるために敗者が服従しても攻撃が終わらず、攻撃を受ければ受けるほど服従の姿勢を固めてしまい、果ては悲劇を迎えるという最悪な悪循環も紹介されています。
人間においても礼儀作法の中に、弱点をさらす服従の名残があります(お辞儀や脱帽など)。敗者・弱者が強者を抑制することは以前読んだ類人猿の本でも出てきました。地位の低いチンパンジーが、群れのボスにエサ場を譲ってほしいと近づくと、ボスは渋々場所を明け渡すといった習慣です。高度な知能と社会性を持った動物は、弱者に優しくあることが備わっているのでしょう。無防備に弱点をさらして「さあ殺せ」となると、殺しづらいのは人間も同じかもしれません。私は天安門事件の有名なシーン、戦車の群れと、その眼前に身一つで立ちはだかった一人の男性のにらみ合いが思い浮かびました。
この章の最後、"自分の体とは無関係に発達した武器をもつ動物が、たった一ついる。(中略)この動物は人間である"(p278)から始まる文章が、70年の時を超え、ロシア対ウクライナの戦争まっただ中である現在、いかにシリアスに胸に突き刺さることか。
あとこれもこの本を楽しむ上で大事な要素のひとつですが、著者(とアニー・アイゼンメンガー)の手による挿絵がかわいいんです!クラシックな名作絵本のような、過剰にデフォルメされていないのにかわいく、手書きの線の味わいがある数々のイラストたちも、読者を楽しませる立派な立役者です。
あとがきで初版刊行時の間違いや出版後の後悔などについて書いてあって、そういうとこも学者センセイ然としてなくて人間くさくていいです。「コンラートのおじさん、やっちゃった」って感じがします 笑。また現在では犬の祖先はオオカミと言われていますが、この本のなかで著者はオオカミ祖先とジャッカル祖先の二派に分かれる、と説いています。70年近く昔のものなので仕方のないことでしょうね。