「雑草魂」は力強さのことではなく、多様性のことだった! 稲垣栄洋『雑草はなぜそこに生えているのか』

「雑草魂」という言葉があるように、雑草には力強いイメージがありますが、そんな雑草も実は巧みな戦略をもってサバイブしていることに、この本を読んで驚きました。

『雑草はなぜそこに生えているのか』(稲垣栄洋/ちくまプリマー新書/2018年)

商品として売り出される野菜や花などの作物は、人間があつらえてくれた良質な土壌に植えられ、人間の手で守られ、収穫時期や性質は一定に管理されています(今をときめく言葉「多様性」とは真逆!)。しかし雑草は当たり前ですが人に世話してもらえません。むしろ引っこ抜かれたり刈られたり、除草剤をまかれて邪魔者扱いです。しかしそんな雑草のことを嫌っている人間のそばでないと、雑草は生きられない。人間と雑草は不思議な関係なのです。

雑草はコンクリートのひび割れだの、ビルとビルの間など、人間に近いところでよく見かけるのですがそれには理由があります。人間にとって雑草と認定されている植物は、山林など豊かな自然の中では繁栄ができません。人間の目に癒しを与えてくれる緑は、その実、生存競争のるつぼであり、その過酷さは私の想像を遥かに超えていました。隣りの草花より少しでも多くの日光を浴びて、少しでも多くの養分を土から得なければならない。土の上でも土の中でも銃弾が飛び交っている戦場のなかでは、雑草は他の植物に負けてしまうのです。力強いイメージの雑草は、意外にもかよわいものだったのです。

人間のそばに生きる道を見つけた雑草は、他の強い植物たちから逃れ、安住しているように思えますが、そこは人間の暮らす場所。人間の都合でいとも簡単に荒らされます。道端に咲いていても道路工事で掘り起こされ、畑に芽吹いても耕され、、、。しかし雑草たちは長い人間との共存の末に多様性を身につけます。同じ品種でも芽が出る時期をずらしたり、虫や風などによる受粉が叶わない場合は、最悪自分の雄しべと雌しべで自家受粉して種を残すなど、人間社会の変化に対応してどんな過酷な状況でも粘り強く花を咲かせ、種を残そうとします。「雑草は抜いても抜いても生えてくる」と言われますが、それは力強い一点突破の生命力ではなくその逆、変幻自在の多様性のたまものだと本書を読んで分かりました。

しかし、この本を読んでいると人間はこんなに雑草のことを嫌って対策を練っているはずなのに、それがまるで雑草の進化を手助けしているかのように思えてきます。人間と自然の関係性は一筋縄ではいかないものだとしみじみ思います。

何も考えずただ生えているだけに見える雑草。しかしその実は戦略に満ちた生を送っていることが本書で分かりました。ひるがえって、人間も生きてるだけで戦略的で、生に対して充分アクティブなのかもしれないと思います。今を生きている全ての人々は、たとえ社会の役に立っている実感がなくても、誰かのために生きられなくても、人生がステップアップできていると思えなくても、輝いていなくても構わない。「なんにもせずただ生きてるだけ」という人がいるとしても、それは「なにもしない」ことが自分にとって有利だという無意識な戦略をとっているとも言えます。個体は生きてるだけ、自分を生かしているだけで生物としての生を全うしていると思います。人間という「種」の単位でなく、いち人間、いち個人という立場で語るなら「こう生きたい」という希望はもちろんありますけど、いち生物としては生きてるだけでアクティブだと思います。そう思えたら色々とラクになれそうじゃないですか。

赤瀬川原平の小気味いい文章に完全ノックアウト!パンチラインがてんこ盛り。赤瀬川原平『千利休 無言の前衛』

基本的に日本史には全く興味はないですが、日本の美意識としての「わび・さび」がどんなものかを知りたいと思ってこの本を手に取りました。

『千利休 無言の前衛』(赤瀬川原平/岩波新書/1990年)

でも千利休といえば日本史の教科書の中の人といったイメージが強かったので、もし千利休ヒストリーが長々と続いたなら、日本史に興味ゼロの私は飽きてしまうのではという不安がありました。または茶道の歴史や御作法など、これまた同様にお勉強チックであったとしても挫折するだろうと思っていました。しかしこの懸念は、読み始めからそれはもう気持ち良いくらいに一掃されます。

序盤にある、赤瀬川原平目線の前衛芸術論がシンプルかつ的を射ていて、読み進めるたびに嬉しさすら感じるのです。全文パンチラインと言ってもいいほど。最初の数十ページでもう幸福感でグロッキー。読み進めるワクワク感がありがた迷惑なことに流し読みを許さない。読んでいて楽しいのに全部逃さず平らげようとするから数ページ読んで満腹になり、胃もたれならぬ脳もたれ、食べ疲れがおきてしまったので少しずつ小分けに読んだ程でした。気に入った文の上にフセンを貼っていたら、おびただしい数になって本の上端だけ厚みが2倍くらいになってるかもしれないです。

もちろん利休と秀吉の関係などにも触れますが、歴史の勉強然としてでなく、いち人間関係の妙であったり、両人の価値観・美意識がぶつかり合う空中戦を見ているようで、とてもスリリングです。

古代より今日まで続いている芸術というムーブメント、それは人間にとってどういう作用があるのか。そういった動きが、実生活にどう現れているのかをあらためて知ることができます。

この本を読んだ後では、何万回と繰り返し歩いている帰り道ですら、何か新しい変化を感じ取ってやろうとするような気持ちのハリが生まれます。流行り廃りや常識、偏見など、うずたかく積み上がった情報の山に埋もれている「新しい価値」を発見したい気持ち、そして自分オリジナルの感性を身につけたい気持ちでいっぱいです。それは一種の挑戦ではあるけれども、今ワクワクしています。

2000日のヒマか、2000日の業か? 上田啓太『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』

仕事をやめた日から約2000日のあいだ、懇意にしている相手宅の一畳半の物置部屋で暮らし、働かずに(雑誌の大喜利コーナーへの投稿・採用で月数万ほどの報酬あり)過ごした著者の実話です。

『人は2000連休を与えられるとどうなるのか?』(上田啓太/河出書房新社/2022年)

帯には「衝撃のドキュメント」とありますが、自分を見つめる哲学エッセイ然としていてそこまで衝撃的ではありません。日記形式であれば日々考えが傾いていくさまがスリリングに追体験できたかもしれませんが。

仕事をやめた直後の開放感を味わいつつも早い段階で不安で鬱々としだす著者。図書館に通い読み漁った本の中から「自動思考」という概念に出会い取り入れます。そこが著者にとってのターニングポイントであったと思います。

そしてこの本の最初の山場であり著者の一番の奇行なのですが、ありあまる時間を使って、PCソフトで自分の記憶をデータベース化し始めます。最初は蔵書ソフトに読んだ本を登録していたのですが、今まで聞いたCD、遊んだゲームと拡大していき、しまいにはネット上にデータのない子どもの頃に着ていた服や遊んだオモチャ、学生時代のクラスメイト(このために実家から卒業アルバムを送らせる!)や今まで出会った人々を、PC上に仔細に記録していく。

自動思考という気づき、記憶のデータベース化を通じてどんどん自分を客観視していく著者。後半は現実感の喪失から現実はすべて幻想というフェーズに突入し、自己流マインドフルネスを取り入れ、人間関係や感情に振り回されることから距離をとり、知覚のみになろうとする過激な純化が進んでいく、、、と書くとなんとなく達観した解脱者のような高貴なイメージがあるけれど、個人的にはホント失礼かもですが「やや厨二病めいた知的な試み」のように感じました。終盤の章のラストを「私は、地球上でずっと一人芝居を続けている。」の一行で締めくくられた時は、うーんちょっと辟易してしまいました笑 私も2000日やすめば、この文に深く共感できるのかもしれませんが…。

幻想に参加しないことが「純粋」であると言っているようにも感じますが、私は共感できません。幻想だ、一人芝居だと分かりつつもその幻想に無理なく参加している人達もけして少なくないように思います。ある程度脳が発達した動物は、それぞれの幻想に参加して生きているのではないかと私は考えます。

最後は2001日目を迎える、要は仕事が決まるのですが、これまでの2000日間と2001日目のあいだにグラデーションがなく、急にスッパリと、ほのぼの日常気分の文章で早々に締めくくりだったので面食らいました。「案外そんなものだよ」ということ?もしくは2000日間の自分を「あんな頃もあったな」とさらに一歩外から客観視しているのかもしれません。2000日目と2001日目のあいだの機微がもっと知りたかったです。

おいしさは、五感だけで感じるものじゃないかも。玉村豊男『料理の四面体』

このごろ「実用的でない料理本」というのが好きで。料理が自分のライフスタイルや思想に与える影響、原始から続く料理という運動が、どんな歴史をたどって、世界にどんな影響を与えたか等に興味があり、色々本を漁るうちに『料理の四面体』と出会いました。

『料理の四面体』(玉村豊男/中公文庫/2010年)

この本を読んでも、包丁さばきがうまくなるわけでも、火加減の調整が適切になったり、盛り付けセンスが磨かれるわけでもありません。実用的な料理指南書やレシピ集ではないですが、「料理は単純な原理で成り立っていながら、無限の可能性がある」というメッセージを伝えてくれます。

他方で得た知見がまったく無関係の分野と結びついたりする、そんな瞬間こそが私の生きる喜びのひとつ。料理で得た経験がマラソンに活きることや、農業のノウハウが油絵に活きること、暗算がロッククライミングにいきることもあるかもしれないと思うだけで人生は楽しい。だから自分の生活に直接役に立ちそうにない本の方がワクワクします。

本書ではまず世界のあらゆる料理が紹介されます。フィレンツェのビステッカとか、コトゥレット・ド・ムトンとか、いかにも美食家が好みそう料理名が頻出する上にとても文学的な表現もあり、グルメ評論アレルギーがある人にとっては、著者がうっとり自己陶酔しつつ書いたように感じて鼻につくかもしれません。

最初こそ気取ったグルメエッセイのような印象でしたが、少しずつ確実に、私たちは著者が導き出したある一つの論理に一歩一歩と近づいていきます。高級フレンチも、アルジェリアの野外で野蛮に作られたシチューも並列に語り、目玉焼きもスクランブルエッグもオムレツも「卵の油いため」という点で同じ料理だとする大胆さをもって、紙上・世界グルメツアーは展開していきます。スープとシチュー、果てはサラダと刺身の境界線もぼやかせる力技にクラクラしながら読み進めていくと、最終章でついにモノリスにたどり着きます。

それがタイトルの「料理の四面体」です。

食材⇆媒介(水、空気、油)⇆火

という関係性を暴き出したのです。料理の工程を分解し、四面体(三角錐)の立体チャートにあらわす。頂点に火、底面の三点は空気、水、油。この世にある料理をその四面体チャート状の座標ですべてあらわすことで、調理の原理を解き明かしたものです。

『料理の四面体』(玉村豊男/中公文庫/2010年)

逆に言えば火を使い、水、空気、油をどの程度か媒介させれば、それはもう「料理」と言いきれてしまうというコペルニクス的転回が起こるのです(生食は除く)。世界中に料理は数多あるけれど、調理の本質は基本的に変わらないということと同時に、そのチャート上にまだ誰も見つけてない一点の座標、つまりまったく新しいレシピが隠されているかもしれないといったロマンも感じます。

こういった本を読むたびに思うのは、おいしさというのは、五感からのみ感じるものではなくて、その調理の工程などに思いを馳せることからも感じるのかもしれないと思います。その食材の生産地の風土のことを想像したり、生産者の顔を思い浮かべたりすること(野菜コーナーに農家の名前と写真が添えられていますよね)、伝統を感じること、思い出と結びつけることなど、五感以外の「気持ちのおいしさ」があるのだろうと。

コロナ禍以降、アップデートされた孤独観。岸見一郎『孤独の哲学』

古来さまざまな哲学者によって語られてきた孤独の受け止め方から、コロナ禍以降の現代の孤独をどう乗り越えていくか、そしていつか必ずやってくる絶対的な孤独・死をどう見つめるか…

日本のアドラー研究の第一人者であり、「嫌われる勇気」がベストセラーとなった岸見一郎さんの、2022年版アップデートされた孤独論です。三木清の著作から多く引用されています。

『孤独の哲学 「生きる勇気」を持つために』(岸見一郎/中公新書ラクレ/2022年)

自分軸をもちながら、傷つくことを恐れず、仲間だと感じられる人と関係を気づいていくこと。未来も死も、「先のことはわからない」という点で同じであるならば、やはり今にスポットを当てて生きなければならないこと。好きでやりたいことがあり、やらなければ気が済まないことならば、他人の評価を気にせずやること等、あらためて大事だと感じられるメッセージがあります。

とくに頭にのこったのは、岸見さんと彼の父親とのエピソード。最初はうまくいってなかった関係が、介護を通じて向き合いながら、お互いに作用しあって信頼し合えるようになるまでの模様が淡々とリアルに描かれています。この岸見さんと父親との関係で一冊エッセイ書いてくれると嬉しいなあ。