狩猟採集、農耕、牧畜(遊牧)の起こりや、各々のふしぎな相互関係に触れつつ、
この地球のとても複雑な自然史と文化の要約を通して、人間の営みを省みる1冊です。

「世界の食文化についての雑学」くらいカジュアルな内容でないと私の頭では理解できないんじゃないかと心配でしたが、興味を失うことなく完読できました。
子供のころに保健の授業で習ったタンパク質や糖質の話と、社会科で習った地理学や風土、歴史で学んだ文化文明がごく自然につながることに感動し、今になって知る喜びを感じました。でも本来その繋がりは当たり前のことなんだよな〜と思い、若い頃もっと勉強に興味をいだければよかったなとも思うことも。「知ること」「知ったことがつながること」の喜びに子供のころに気づけるかどうかは大事ですよね。
人間に欠かせない栄養素、糖質とタンパク質。この組み合わせは風土によって米であったり小麦であったり、魚であったり豆類であったりと異なります。日本は「米と魚」、西洋では「麦とミルク」などといったように。著者はこれについて「糖質とタンパク質のパッケージ」という概念を提唱しています。この組み合わせの違いがその地の文化や宗教、思想にフィードバックしているのが面白いです。
食文化の素晴らしさにも触れています。たとえば日本食について、世界でも注目される和食。その原点ともいえる一汁一菜には、日本の紀行・風土が現れていると著者は説きます。汁ものには水が豊富であることと良質な軟水があること、豊富な魚介類から採れるさまざまなダシも必要です。湿潤な気候により発展した米作りと発酵技術も和食には欠かせません。以前は粗食であることの例えだった「一汁一菜」ですが、白ごはん、味噌汁、お漬物、ただこれだけでも、日本の豊かさが現れているのです。
人間の社会と気候が互いに影響しあったり、海と森林が互いに作用しあったりと、複雑な相互関係が絶妙なバランスを保ちつつ、地球をおおいつくす毛細血管のようにからみあって、この自然というシステムを持続させてきたわけですが、途方もなく長い地球の歴史上のたった一瞬にも満たないこの数百年で、人間は豊かさや便利さを求めるあまりにいきすぎた環境破壊をおこなってきたわけです。
たとえば現代に生きる私たちが手に取ったひとつのパンには、どれだけの人と技術が関わっているでしょうか。海外で小麦を栽培する農家、その栽培に使われる機械およびその燃料、小麦の製粉、包装にも人間や機械は当然関わりますよね。そして何トンもの小麦粉は船で運搬され、食品メーカーが買い入れ、工場の巨大なベルトコンベアやオーブンでパンが焼かれます。個別包装する機械、それをまとめて小売店に運ぶトラック、小売店による管理と販売があって、やっと私たちの手元に届くのです。ここまでにどれだけの燃料が使われ、どれだけの土地を使って巨大農場や工場が建てられているでしょうか。このたかが一つのパンは人間のとんでもない贅沢だということに読後気づかされます。
大量生産、大量消費が当たり前の現在から、作り手と食べる人の関係がよりローカルで、より小さな輪でつながるような在り方を目指すべきではないかと思います。農家直売のマーケットで買うことや、時には財布と相談しながら、他のものより高い値段のフェアトレード商品を買うこと。すこしずつでも、できる範囲で今の在り方から距離を取っていきたいと思っています。
何千万年と続く膨大かつ複雑な世界の歴史・文化に大幅にページを割いていますが、最後のたった十数ページ「終章」「おわりに」にため息が漏れるほど胸を打たれました。最後の数行を以下に引用します。
〝食とは、地球システムのなかでの人間の営みなのであって、いくら技術が進んだところでこの根本原則が変わることはない。これを都合よく制御しようという現代社会の試みは、いったん動きだせばあとは永遠に動きつづける「永久機関」を作ろうという試みと何ら変わることはなく、破綻は目に見えている。繰り返し書こう。食の営みは、土を離れては、あるいは人と人との関係を切り離したところでは持続しえないのである。〟
人間が管理しようとすることイコール多様性をなくし、コントロールをしやすくすること。自然相手でも、人間相手でもそうだと思っています。スーパーに並ぶ野菜はどれも形、大きさ、色味が揃えられていますが、野生のものは姿形もバラバラです。本来はそうなのです。多様性を受け入れることは、すなわち管理をゆるめることにつながることではないかと思うのですが、実際の社会は管理・監視の目を強めているようにしか思えません。
人類史の本を読むたびに、この人間が生み出した技術を賛美したくなるような文明の発展と、生態系の破壊に見られるような人間の罪深さのあいだで色々な感情がないまぜになります。取り返しのつかないことをした人間たちが今になってやっと始めた、せめてもの罪滅ぼしがSDGsということになるでしょうか。