『白痴』―苛烈で野蛮で人間的な愛

『罪と罰』と『カラマーゾフの兄弟』、そして『地下室の手記』の印象が強すぎるために、どうにも他の作品の影が薄れてしまいがちな感のあるドストエフスキーですが、今回はそんな彼の五大長編のひとつ、『白痴』を紹介させていただこうと思います。

先に挙げた3作品に比べると知名度こそやや低いものの、独特の人生観や死生観といったドストエフスキー作品の哲学的な魅力を保ちつつ、同性間の愛(ムイシュキン公爵とロゴージン、ナスターシャとアグラーヤ)や「男と男のあいだで〈流通〉する女」といったジェンダー論の視点からも読み解くことのできる作品なので、そういった方面に興味がおありの方にも楽しんでいただけることでしょう。そして、それぞれの登場人物たちの人間的魅力といった点でも、『白痴』は『罪と罰』や『カラマーゾフ』にけっして引けをとりません。

白痴 上巻 / ドストエフスキー 木村浩訳 / 新潮社 / 2004
白痴 上巻 / ドストエフスキー 木村浩訳 / 新潮社 / 2004

なんといっても、この作品の最大のヒロインにして、主人公たるムイシュキン公爵とロゴージンにとってのファム・ファタール、ナスターシャ・フィリッポヴナ!! 持参金を目当てに彼女と契ろうとしたガヴリ―ラの目の前で、炎の燃え盛る暖炉に札束を投げこみ「とってごらんなさい、素手で。そしたらあなたのものよ」と嗤う狂気じみた苛烈さをみせる一方で、涙で頬を濡らしながら笑みを繕って公爵に別れを告げようとするはっとさせられるほどの弱さ脆さを持ちあわせる彼女。その不安定さは、どことなく『嵐が丘』のキャサリン・ロックウッドを彷彿とさせます。

ムイシュキン公爵の「きみの恋は憎しみとすこしも区別がつかないものなんだね」という台詞が象徴的なのですが、ムイシュキン公爵と対の位置におかれ、もう一人の主役の役割を果たすロゴージンにもヒースクリフと若干ながら重なるところがあり、彼ら彼女らのあまりに野蛮で容赦のなく切実な愛情という点において、『白痴』と『嵐が丘』はおどろくほど似通っているので、『嵐が丘』好きは『白痴』も好きになるのでは? という仮説をこっそり立ててみたりしています。かなり強引な論法ですが、あながち間違いではない気がしているんですよね……。

そのほかにも、ナスターシャの恋敵(そして、憧れ)ともなるアグラーヤ(彼女もなかなか苛烈なお人です)や、学問にはあまり精通しておらずとも、心からの思いやりや厳しさという溢れんばかりの人間的魅力をもった、アグラーヤたち3姉妹の母であるリザヴェータ夫人、ニヒリスティックな立場を貫きつつ、夫人の欺瞞のない憐れみに心うたれた青年イポリート……さまざまな人物が登場し、それぞれの人生にドラマがあり、そのドラマのなかに必ず愛が描かれています。

そして、『罪と罰』のソーニャとラスコーリニコフの愛がその宗教色の強さゆえに日本人にはすこし馴染みにくいものがあるのに対し、『白痴』は(ドストエフスキー後期の作品なので当然ある程度の宗教色はあるものの)もっと俗で人間的な、叩きつけるような愛を提示してくるので、なんというか引っかかりなく「はいってくる」のではないかと思います。ひとつの恋愛小説としても読めますし、あえて『白痴』からドストエフスキー長編への扉をくぐるのもありかもしれませんね。

まったくの余談ですが、作中でさらっと流されるガヴリーラの長台詞の一部、「人間の自尊心というものがどんな手品をやらかすものか、あなたには想像もつかないでしょうがね」というフレーズが、個人的にはやたらと印象にのこっています。なにかのエピグラフに使われていそうな趣のあるフレーズだと思いませんか?

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『新世界より』―綿密な世界観

貴志祐介、というとやはり映画化もされた『悪の教典』などサイコホラー系統の作品で有名ですが、今回は、それらとはすこし毛色の違う長編『新世界より』をご紹介させていただきたいと思います。

新世界より 上巻 / 貴志祐介 / 講談社 / 2011
新世界より 上巻 / 貴志祐介 / 講談社 / 2011

数カ月前、わたしは貴志さんの著作のひとつ『青い炎』は『罪と罰』へのオマージュであるということを知って、それまでさほど興味のなかった彼の作品を読んでみようという気を起こしました。が、しかし、『悪の教典』はすこし苦手な予感がするし、『青い炎』はパロディーである以上最初に読むのはなんだか躊躇われるし……と手始めに読んでみる作品が決まらず悩んでいたところ、貴志作品の愛読者である知人から『新世界より』を勧められたので、大学が春休みにはいったのを機に一気読み。

結果、とてもおもしろく、とりわけ世界観の綿密さには圧倒されるものがありました。作品のジャンルとしてはSFにあたりますが、舞台として設定されているのは、「古き良き」日本の原風景。そこに生息する、人語を解し人間に服従する〈バケネズミ〉や、交渉や駆け引きといった過度に文化的な行動をとる〈ミノシロモドキ〉、その他どう考えても不自然な進化を遂げている数多の動物たち。ぽんぽんと登場する村落の名前や、土の匂いまで感じられそうな田園風景の描写、図鑑のごとし細かさで説明される生物の生態、それらすべてが一体となって作品のリアリティを強め、読者をその独特の世界観へ誘います。

ページ数が多いとどうしても、読み通すのは大変そうという印象を受けてしまいがちですが、この作品は文体や話の展開からしてかなり読みやすい部類にはいるので、長編小説を読んで世界観に浸りたいけどドストエフスキーやトルストイ、ユゴーといった古典はちょっと厳しい、という方にちょうどいいかもしれません。文体が軽く、描写が映像的(貴志祐介作品が映像化されやすい由縁かもしれません)でライトノベルちっくなところもありますから、普段本は読まないけどアニメやドラマ・映画は好き、という方にもおすすめできますし、「機械! 宇宙! 終末! 」というような雰囲気をとっつきにくく感じてSFに苦手意識を抱かれている方にも、ぜひ読んでいただきたいです。

数年前にアニメ化もしていたようで、OPとEDの映像を観てみた限りでは、静かな美しさが却って不気味な原作の雰囲気が尊重されているようで好印象でしたし、評判も良いようなので、機会があれば観てみようと思います。

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『悪童日記』―穢れのない簡潔さ

『悪童日記』。近年映画化もされましたし、もともと世界的に名の知れた作品なので、読んではいないけれどあらすじくらいなら知っているし興味もある、という方もきっといらっしゃるでしょう。そんな方がこの小説をお読みになるきっかけにでもなってくれれば、と、今週はあえて有名にすぎる『悪童日記』を紹介させていただきたいと思います。

悪童日記 / アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳 / 早川書房 / 2001
悪童日記 / アゴタ・クリストフ 堀茂樹訳 / 早川書房 / 2001

この『悪童日記』では、「魔女」と呼ばれる祖母のもとへ疎開した双子が見聞き経験したものごとが、彼ら自身の手になる「大きなノート」の文面という形で淡々と語られてゆきます。常に「ぼくら」という一人称を用い、ふたりでひとりの体を崩さない双子。彼らの眼前に展開する物事のなかには、大戦下という時代設定も相俟って悲劇的なものも多くありますが、それを見据え語る彼らの視点は終始透徹しており、とり乱すということがありません。

しかし機械的ではなく、その底に沈められた感情をたしかに感じさせる特異な文体に、個人的にはドイツの文芸批評家ヴァルター・ベンヤミンが論文「物語作者」において論じた「穢れのない簡潔さ」という言葉が連想されます。長くなってしまうので引用は避けますが、簡単に説明すると、読者(聞き手)に何よりも深く物語を印象づけるものは、簡潔さであるというのです。説明をされない、その場その時の登場人物の心情をしめされない、だからこそ、物語の聞き手である読者は自らそれを推察し、それがそのまま物語を記憶にとどめる重しとなる。ロシアの巨匠アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「アンドレイ・ルブリョフ」のなかでも、「虚飾を排した簡潔さ、これは金言だよ」という発言がなされており、こちらも同時に思い出されます。

ちなみに、『悪童日記』が『二人の証拠』『第三の嘘』とつづく三部作の第1作目にあたるものであるということを、私は『悪童日記』のあとがきを読んではじめて知りました……。書店で個々を目にすることは度々あったのですが、別々の作品として認識していたので、三部作と知って「あれ続編だったのか!! 」と驚かされたものです。

『悪童日記』それのみでも、十分にひとつの傑作としての完成度を誇ってはいますが、長編を読むのが苦にならない方はぜひ、つづく『二人の証拠』『第三の嘘』のほうもお読みになっていただければと思います。もう凄まじいのです、『悪童日記』で完結をみせたと思われた世界が徐々に疑われ解体されてゆき、散らばり反転し、読者のなかで何が真実で何が虚構であったのかが混迷してゆく(そもそも〈真実〉などあるのか? という疑問へと誘われてゆく)、あの感覚はそう味わえるものではありません。あの『ドグラ・マグラ』と同じくらい、読んでいて頭のなかが迷路のようになる、至高の読書体験ですよ。

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『CLOVER』―しあわせになりたい

『カードキャプターさくら』に『X』、『ツバサ-RESERVoir CHRoNiCLE-』に『ちょびっツ』と、多彩な作品を発表しつづけ、幅広い読者層から絶大な支持を得ている4人組の漫画家CLAMP。今回は、そんな彼女たちの作品の中ではあまり知られていない傑作、『CLOVER』を紹介させていただきたいと思います。

CLOVER 第1巻 / CLAMP / 講談社 / 1997
CLOVER 第1巻 / CLAMP / 講談社 / 1997

画面構成や会話のリズムといったところに美点のある作品なので、あらすじだけまとめて紹介するのは不粋なのですが、とりあえずざっとかいつまんでみると、このような流れ。退役軍人である琉・F・和彦は、かつての恩人から依頼され、とある少女を彼女の望みの場所である「妖精遊園地」へ送りとどけるという役目を引きうけます。「しあわせになりたい」「だから連れてってここじゃないどこかへ」というフレーズの繰り返し登場する、和彦の亡き恋人・織葉の歌を口ずさみつづける少女・スウ。なぜ彼女は幽閉されていたのか、なぜ織葉の歌に執着するのか、なぜ壊れた遊園地へ行きたいのか。多くの謎をかかえたまま、彼らは目的地にたどり着き、そして……。

『CLOVER』は、とても独創的な作品です。まず挙げられるのが、思いきったコマ割り。余白、というかコマに囲まれていない部分があまりに広く、コマの中で物語が進行するというよりは、登場人物や背景・小物へのスポットライトとしてコマが使われている、といった風情があります。つぎに、異様に細かく振られたタイトル。目次をひらくと、「葉」「森の中の小さな翼」「歌う少女」ほか21題がずらっと並べられており、本編を読みすすめると、平均して5ページほど、短ければ見開きの左右両方にというペースで読者の目にはいってくるこの題は、一般的な読み物で使われるような「章題」ではなく、もはや場面タイトルとでも称するのがふさわしいものとなっています。

イラストに着目してみると、トーンを使わず白黒ベタのみで塗ることで、どきっとするほどまっすぐに印象を叩きつけてくる画面が作りだされ、そのシンプルさが却って不思議な雰囲気を漂わせます。そういった面では、『xxxHOLIC』に近いところがあるかも……? そして、話の構成。ひとつの物語(たとえば和彦とスウの)が幕を閉じると、そこに登場した人物にまつわる過去が描き出され、その話がおわるとまた別の人物の過去が……といった具合に、「現在」から「過去」へ、糸をたぐるように時間軸を遡って話が展開されるのですが、彼ら彼女らに待ちうける結末をすでに知っている読者には、登場人物たちとはまったく違う視点が与えられ、それによってさらにこの作品のもつ不思議な印象が強められるのです。

2008年には全2巻の新装版も出たようですが、個人的には全4巻の旧版のほうがよかったなあと思ってしまいます……。スウと和彦を追う1・2巻、和彦と織葉の過去を描く3巻、そして、てっきり名脇役にとどまると思われた銀月と藍の出会いを、なんと丸一冊つかって描く4巻、とそれぞれの人間模様が巻ごとに収まりよくまとまっているので。とくに3巻、4巻は別々の冊子で持っていたい気持ちが……ううん、悩ましい。

この作品、今のところは完結扱いとなっていますが、CLAMPさんが続編執筆のご意思を表明されているので、いつか続きを拝むことができるかもしれません。とはいえ、4巻まででも十分に楽しめますので、すこしでも興味をもってくださった方はぜひお読みになってみてください。

舞台「トーマの心臓」―生身、むきだしの感情

新宿のシアターサンモールにて現在上映中の、劇団スタジオライフさんの舞台「トーマの心臓」を観てきました。

以前『星の王子さま』についての記事でも書いたように、私には、原作ありきのメディアミックス作品に対してつい点が辛くなってしまう悪癖があります。そのため、不安と期待とやっぱり不安と、いや、しかし萩尾先生(原作者)が太鼓判を押してくださっているのだから大丈夫だ!! という安心感とが入りまじった、ひどく複雑な心境で開幕に臨むことに……。結果としては、たいへん観ごたえのある舞台で、原作ファンの性で「できればここはカットしないで、あるいはどうにかうまく演出して欲しかったなぁ」という箇所はありつつも(冒頭のトーマの〈飛び降り=墜落〉だとか、ユーリの回想のなかの〈それでは君はだれも愛していないの〉のくだりだとか……)、おおむね大満足で帰路につきました。

舞台「トーマの心臓」2

私がこの舞台を観るにあたって不安に思っていたことのひとつが、役者さんの声や体格の問題。『トーマの心臓』を原案にした(と、公言されてはいないものの、観ればわかる)「1999年の夏休み」という映画があるのですが、あちらはキャストに少女たちを起用し、彼女らを男装させることで、萩尾作品の中性的な少年たちの雰囲気をうまく演出することに成功しました。しかし舞台、それもプロの舞台となると、必要な声量の関係もあって、彼らを演じるのは大の大人。はたして、あの永遠の少年たちを表現することができるのか……? とずっと疑問に思っており、実際、幕が開いてからもしばらくは大人の男性が演じるユリスモールやオスカーに違和感を禁じ得ませんでしたが、役に入りこみきった演技に次第に惹きこまれてゆき、終盤に差しかかるころには、原作を読んでイメージしていたとおりの彼らをそこに感じていました(ときたま、バッカスと並んで彼より大きいオスカーなどで、はっと現実に引き戻されることはありましたが、それはご愛嬌!! )。演技というものの力には、つくづく驚かされます。

舞台の演出とは直接の関係のないところでも、生身の役者がその身体、その声で演じることで新しく発見できたことも。たとえば、登場人物たちの名前の語感。原作はマンガなので、名前の字面はともかく語感にそこまでの注意をはらったことはなかったのですが、生身の声で呼びかけられてみると、まったく話が違ってくる。ユリスモール・バイハンは誠実生真面目で「おかたい」、悩み多き印象を与えますし、オスカー・ライザーは、あの飄々とした「お兄さん」感、少年のなかの青年、ストレンジャーとでもいうべきそれを強めます。トーマ・ヴェルナーは、苗字に濁点がまざることで作中で語られる「おとなしい」彼の印象との齟齬を生じさせ、トーマという少年の人物像をさらに謎めいたものにしていますし、なんといってもエーリク・フリューリンク!! 先生が彼の名前を怒鳴りつけたところで、このあまりの語感の良さ、流麗さに感動してしまいました(本来そんなシーンでは、まったく、なかったのですが……)。メイン4人のなかでひとりだけいっさいの濁音がはいらないこの響きが、図太いようにみえる彼に繊細な印象を付与し、トーマのそれとは正反対の効果をあげているような気がします。

演技そのもの以外での素晴らしいところも、もちろんたくさん、この場ではとても言い尽くせないほどあり、舞台セットひとつとっても、けして華美ではないけれど品の良い、まさにシュロターベッツといった風情があります。音響面では、何度か流れるアヴェ・マリアによって、荘厳さ、妙な騒々しさのない潔癖な空気、しかし無菌室のようではない温かみが演出されていましたし、劇場へ足を踏みいれた瞬間、「シュロターベッツへようこそ! 」というセリフでのお出迎えがあるのも嬉しい。

個人的な感想をいろいろと述べてきましたが(全体的に原作ファン向けの内容となってしまい申し訳ありません)、演出や内容の取捨選択をどのように捉えるかは人それぞれですし、原作を読まれていない方の場合は、原作ファンとはまた違った観方をなさることでしょう。芸術作品というのはやはり、どんな種類のものでも、直に鑑賞してみないとわからないものです。今回紹介させていただいた舞台「トーマの心臓」は3月13日まで、日によってはまだチケットがのこっているようですので、ぜひ劇場に足を運んでみてください。一見の価値は、まちがいなくありますよ!!