『悪童日記』。近年映画化もされましたし、もともと世界的に名の知れた作品なので、読んではいないけれどあらすじくらいなら知っているし興味もある、という方もきっといらっしゃるでしょう。そんな方がこの小説をお読みになるきっかけにでもなってくれれば、と、今週はあえて有名にすぎる『悪童日記』を紹介させていただきたいと思います。
この『悪童日記』では、「魔女」と呼ばれる祖母のもとへ疎開した双子が見聞き経験したものごとが、彼ら自身の手になる「大きなノート」の文面という形で淡々と語られてゆきます。常に「ぼくら」という一人称を用い、ふたりでひとりの体を崩さない双子。彼らの眼前に展開する物事のなかには、大戦下という時代設定も相俟って悲劇的なものも多くありますが、それを見据え語る彼らの視点は終始透徹しており、とり乱すということがありません。
しかし機械的ではなく、その底に沈められた感情をたしかに感じさせる特異な文体に、個人的にはドイツの文芸批評家ヴァルター・ベンヤミンが論文「物語作者」において論じた「穢れのない簡潔さ」という言葉が連想されます。長くなってしまうので引用は避けますが、簡単に説明すると、読者(聞き手)に何よりも深く物語を印象づけるものは、簡潔さであるというのです。説明をされない、その場その時の登場人物の心情をしめされない、だからこそ、物語の聞き手である読者は自らそれを推察し、それがそのまま物語を記憶にとどめる重しとなる。ロシアの巨匠アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「アンドレイ・ルブリョフ」のなかでも、「虚飾を排した簡潔さ、これは金言だよ」という発言がなされており、こちらも同時に思い出されます。
ちなみに、『悪童日記』が『二人の証拠』『第三の嘘』とつづく三部作の第1作目にあたるものであるということを、私は『悪童日記』のあとがきを読んではじめて知りました……。書店で個々を目にすることは度々あったのですが、別々の作品として認識していたので、三部作と知って「あれ続編だったのか!! 」と驚かされたものです。
『悪童日記』それのみでも、十分にひとつの傑作としての完成度を誇ってはいますが、長編を読むのが苦にならない方はぜひ、つづく『二人の証拠』『第三の嘘』のほうもお読みになっていただければと思います。もう凄まじいのです、『悪童日記』で完結をみせたと思われた世界が徐々に疑われ解体されてゆき、散らばり反転し、読者のなかで何が真実で何が虚構であったのかが混迷してゆく(そもそも〈真実〉などあるのか? という疑問へと誘われてゆく)、あの感覚はそう味わえるものではありません。あの『ドグラ・マグラ』と同じくらい、読んでいて頭のなかが迷路のようになる、至高の読書体験ですよ。
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