ガンダムいろいろ

『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』の本編がアニメ化するかもしれないということがニュースになっていますね〜。すごく楽しみなんですが、OVAのクオリティーでコミック全24巻をやろうとしたら何年かかるか分からないので劇場版になるのかな? ガンダム40週年の来年にやってほしいけど難しいだろうな。漫画の方を読み返しながら楽しみに待ちたいと思います!

そしてお台場の『実物大ユニコーンガンダム』も展示開始が9月24日に決定しました。こちらも楽しみですね〜。開始したらすぐにでも行きたいけど混みそうですね。ユニコーンガンダムはファン以外はイラストすら見たことがないでしょうけど、顔や肩など変形をするみたいなので知らない人でも見る価値がありそうです。

『塩一トンの読書』――須賀敦子に慈しまれたものたち

空は青く、緑はむせかえるように萌え、しだいに湿り気を帯びた美しい夏の気配……と、相も変わらずの耐え難い暑さに包まれはじめた今日この頃ですが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

暑さにめっぽう弱いわたしは、窓を開け風を通した自室にすっかり引きこもりがちになっています。そんな部屋の中で、本棚に並べてあった蔵書をふたたび紐解いてみたりしているうちに、いつかこの場で紹介したいと思っていた一冊がふと目に入ったので、この機に記事を書くことにしました。

塩一トンの読書 / 須賀敦子 / 河出書房新社 / 2014
塩一トンの読書 / 須賀敦子 / 河出書房新社 / 2014

須賀敦子先生の、本と読書と、それらと共にあった人生にまつわる慈しみに満ちたエッセイのまとめられた『塩一トンの読書』。

すぐれた文章家の書く文は、不思議とそれぞれ特有の雰囲気を漂わせるものですが、須賀先生の著作からは、温かい静寂に満たされた夏のそれが感じられるように思います。ただし、匂い立つような熱気のまとわりつく日本の夏ではなく、想像の中のイタリアの夏の、からっと晴れわたり、穏やかでオレンジがかった光に満ちた昼下がりから夕暮れにかけて。

写真の河出文庫版『塩一トンの読書』は、タイトルのフォントや写真といったカバーデザインもそんな文章の雰囲気にひっそりと寄り添っていて、けっして華美ではないけれど落ち着いた存在感のある一冊に仕上がっています。

特徴的なタイトルは、作者の姑さんが口癖のように用いたという「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」という言葉から。作者はこの言葉を幾度も思い返し、古典文学を読み解こうとする際にもこの心持ちで挑まれたそうです。

収録されたエッセイのひとつ『作品のなかの「ものがたり」と「小説」』における、計り知れない知性と教養に支えられた『細雪』論などを読んでいると、とほうもなく遠いひとに思われてくる須賀先生ですが、

記憶のなかの本。むかし読んだ本を、まるで反芻するようにおもいだして、一日のふとした時間のなかで、その感動にひたることがある。

終結部分(電車の中で読んでいて、そこだけは家に帰って読むことにした)はすばらしい。

というところなど、端正なエッセイの中、ふと彼女の日常のにじむ箇所には、語り手である彼女にそっと指先が触れたかのように共感できるところもあり、また、タブッキの『インド夜想曲』とフェルナンド・ペソアという詩人についてのエッセイの中の、

ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。

という記述に、「ふたつの言語をもつ」などとはとても言えない未熟者の外国語学習者であるわたしでさえも、大学に入ったばかりの頃、辞書とにらめっこする毎日にふと不安になり、学校の授業のための本以外では鏡花全集ばかりめくっていた時期があったなあとぼんやり思い出されたり。そんな身につまされるフレーズもふと織り込まれているものだから、読み終わって本を閉じたときには、どこか不思議な読後感が残ります。

それにしても、作者の回想の中、彼女を愛し彼女に愛された人々の、まるですぐそこにいるような、ちょっとした表情の動かし方や話すリズムさえ伝わってきそうな描かれ方といったら。一冊一冊と一トンの塩を共に舐めようとするようなエッセイを読むにつけても、愛情深い方だったのだなあとしみじみ偲ばれます。

『ユルスナールの靴』にある幼少期の回想曰く、いつも大きめの下駄を買い与えられころころと転んでばかりいたらしい少女が、人を教え導く凛とした女性になってゆく道のりを、彼女がなにを慈しんで生きたのかを、常に彼女のそばにあり続けた本についての真摯な語りを通して垣間見ることのできる幸いには、いくら感謝してもたりないほどですね、ほんとうに。

古本屋 草古堂は、須賀敦子の著作・関連書籍の買い取り大歓迎です。出張買取も承りますので、お気軽にお問い合わせください

『薔薇の全貌』―世界を革命したアニメ、少女革命ウテナ

NHKが主催し、今年1月から3月にかけて投票が行われた「ベスト・アニメ100」。「TIGER & BUNNY」や「魔法少女まどか☆マギカ」、「おそ松さん」に「カードキャプターさくら」(店員N、思わずガッツポーズ)、「新世紀エヴァンゲリオン」等そうそうたる作品がランクインする中、1997年に放送され今でもカルト的人気を誇る「少女革命ウテナ」が30位につけました。

ヘルマン・ヘッセ『デミアン』の有名なフレーズやJ・A・シーザーの呪術的音楽、表現至上主義的な比喩的演出を取り入れたことによる独特の雰囲気をもち、一見いかにも「少女マンガ」的なキャラクター達が放つのは心の柔らかい部分に容赦なく切り込んでくるセリフの数々。人間の欲望を惜しみなく曝けだし、けれどもその根底にある愛を礼賛もする。2017年現在に至っても、色褪せぬ鮮烈さで人々を惹きつけてやまない「ウテナ」。

今回は、そんな「少女革命ウテナ」の公式ファンブック『薔薇の全貌』をご紹介しつつ、作品への個人的な思い入れを語ってゆきたいと思います。

少女革命ウテナ 薔薇の全貌 / AX特別編集 / ソニー・マガジンズ / 1999
少女革命ウテナ 薔薇の全貌 / AX特別編集 / ソニー・マガジンズ / 1999

残念ながら現在は絶版となっており入手困難な品なのですが、「ウテナ」の魅力が濃密すぎるほど詰まりに詰まっています。

『薔薇の全貌』の大部分は、上の数枚のようなカラーイラストと作中の印象的なフレーズを組み合わせたページが占めています。この本が発行されたのは1999年、今から20年近く前なわけですが、このデザイン性、この配置、この文字組!! これでは色褪せようもないよなあ、としみじみすることしきりです。フレーズにしても、「ウテナ」ファンは間違いなくこれ好きでしょう、というところを狙って抜粋されている感があって、数枚めくったところですでに「もう降参」という心持ちにさせられます。

半ばに袋とじのスタッフインタビューがあるのですが、この密度もまたすごい。スタッフごとに数ページ分しか収録されていないのに、この作品に対する思い入れ、なぜこんなアニメを作ろうと思い立ったのか、この作品を通してどんなことを伝えたかったのか、このシーンにはどんな思いを込めたのか、等、作り手へのインタビューというものに視聴者が求める内容はおおよそコンプリートされているように思います。作り手の思惑が「正解」かというと決してそうではないし、自分が作品と一対一で向き合ったときに受けた情動が何より大切ではあるのでしょうが、それはそれとして単純な興味は尽きませんから、スタッフインタビューはやはり抑えておきたくなりますよね。

〈黒薔薇編〉は「簡単すぎた」けれど合間にあの話がなかったら視聴者は付いてこられなかった気がするからまあよかったのかもしれない、というような芸術としての作品づくりと商売としてのそれとの間で生じる葛藤だとか、いろいろな裏話がされているのですが、わたしがとくに夢中になって読み込んだのは、キャラクターデザインとマンガ版を担当したさいとうちほさんへのインタビュー。

視聴者の快楽/登場人物の快楽の匙加減や「王子様はいないから、ひとりで生きていかなければならない」という作品全体のテーマのシビアさについて、伝統的に心情描写の多い少女マンガの作家独自の視点からコメントなさっていて、かなり読み応えがありました。

このあたりを読んでいてふと思い出されたのが、個人的にウテナ本編で一番印象に残っている、最後の決戦前、どう転んでも平穏なときに戻れはしないだろうとわかりきっている状況で、主人公ウテナと幹・樹里先輩がバドミントンをするシーン。そこはかとない不穏さが漂う中、それでも尚清々しい、あの光景。

振り返って考えてみると、あの場面は一方通行の想いが暴走することの多かった物語の終盤に、自分の打った球(相手に向けた想い)を正しく受けとめ返してくれる人がいるという幸福を示す役割を果たしていたのではないかと思います。

王子様コンプレックスを抱えていたウテナも、特定の人物への強い執着を持て余していたふたりも、序盤から終盤にかけてずっと歪みを抱えていたけれど、ウテナと決闘という形で信念をぶつけ合い、最後にはどこか吹っ切れたような様子でまっすぐに笑っている。「人はひとりで歩いてゆかなければならない」というテーマは紛れもなくシビアなものですが、この作品のデュエリストたちは、そうして掴み取った自分の道は清々しい幸福に満ちているのだという希望をも一緒に渡してくれるから突き放されたままではない。登場人物たちみんながみんな救いに辿りつけたわけではないというあたり、残酷なことは残酷ですが、ある意味そういった弱い人間の存在が目をそらされず許容されているともいえる。そんなところも、「ウテナ」の大きな魅力のひとつなのかもしれません。

余談ですが、ウテナは副題もはっとさせられるものが多くてじつにいいですよね……2話「誰がために薔薇は微笑む」、31話「彼女の悲劇」、そして最終話「いつか一緒に輝いて」あたりはこの短いフレーズを見ているだけでもうどきどきしてしまいます(その反動か、ギャグ回は奇天烈なタイトルばかりなのもキュート。ギャグにもいろいろ潜ませてくるので油断はできませんが)。

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『ハリー・ポッターと呪いの子』――厳しくも優しい、誠実な続編

その世界観と魅力的な登場人物たち、そしてファンタスティックなストーリーで世界中の子供達を今なお虜にしつづける「ハリー・ポッター」シリーズの正統な続編『ハリー・ポッターと呪いの子(スペシャル・リハーサル・エディション・スクリプト)』が刊行されて数カ月が経ちました。

書店に走ったあの日から、ひとつ季節が移り変わったのかと思うと時の流れの速さにびっくりさせられます。そのうちここで感想を述べよう、と決めてはいたのですが、時節に合わせた記事を書いているうちに時は過ぎ、完全にタイミングを逸した形になってしまいました……。作品への愛だけはありったけ込めましたので、本編ファンでまだ「呪いの子」は読んでいないけれどどんな感じだったのだろう、と気になっている方や、「呪いの子」を読み終えて他の人の感想も知りたい!! と思っていらっしゃる方に楽しんでいただけたら幸いです。

前者の方々のため、ネタバレにならないよう、できるだけ具体的な内容には触れずに感想を書いてゆきますが、すでに読破なさっている方は、「ここはあのエピソードのことを言っているんだな?」とニヤッとしてみてください。

ハリー・ポッターと呪いの子 / J.K.ローリング&ジョン・ティファニー&ジャック・ソーン 松岡佑子訳 / 静山社 / 2016
ハリー・ポッターと呪いの子 / J.K.ローリング&ジョン・ティファニー&ジャック・ソーン作、松岡佑子訳 / 静山社 / 2016

この続編は、ハリーの息子アルバスとドラコの息子スコーピウスの友情・冒険物語であると同時に、かつて多くの犠牲の上に英雄となったハリーたちが過去に復讐され、それを苦悩しつつ受けとめたて再び成長してゆく、そういった物語であったように思います。

ハリーとヴォルデモート卿の戦いの中で、世界を救うべく駆け抜ける「生き残った男の子」のすぐ隣で命を落とし、 その激動ゆえにゆっくり悼まれ顧みられることすらなかった、ハッピーエンドからとり零された人々。彼ら彼女らのことを今一度思い起こさせ、また同時に、グリフィンドールとスリザリンの確執など、本編でわだかまりを残したままであった事柄をもひとつひとつ解きほぐしてゆくような、本編と真っ向から対峙する続編。

三校対抗試合のラストでヴォルデモートの手にかかったセドリック・ディゴリーへの言及や、本編では結局互いが互いを嫌い、厭い、あるいは憎んだまま終わってしまったグリフィンドールとスリザリン、その対立の象徴であったハリーとドラコの関係性の変化にはぜひ注目してほしいところです(スコーピウスと、ロンとハーマイオニーの娘ローズのそれにも)。ジェームズやシリウスが幼き日に行ったスネイプ少年へのいじめもあって、スリザリンはたしかに傲慢で差別的だけれど、そんなスリザリンに対するグリフィンドールの接し方も大概ではないか、という意見がしばしば読者から出ていたように思いますが、本書の序盤でハリーによる闇の印をもつ者への「逆差別」という言葉がドラコから発されることからも、本編では解決することのなかったこの問題にしっかり向き合おうという姿勢が感じられます。

また、この物語のキーとなる「呪いの子」(おそらくはトリプルミーニング)、そのうちのひとりに救いがもたらされることはありませんでした。それまでの流れで独善的な視点を取り払われ、その子をただの「悪」だと決めつけることのできなくなった読者に、だれもが幸せになれる物語など存在しないのだと、残酷なまでにはっきりと突きつけた。だからこそ、「死の秘宝」のクライマックスで、ハリーがヴォルデモートを、モリー(ロンの母)がベラトリックスを打倒したときのような爽快感はないかもしれない。けれど、それでいい、そうあらなねばならない、そのやるせなさこそが、「戦い」というものを見届けたとき、 わたしたちの心のなかに本来生まれるべきものだと、諭されたような気がしています。

ハリーとヴォルデモートの共通点と相違点については、これまでにも作者や読者たちから頻繁に言及されてきましたが、個人的には今回の、救われることのなかった「呪いの子」とハリーの境遇の似通い様に、まさに因果応報、運命の皮肉を感じました。あの子の言葉は、ホグワーツ1年生のときに「みぞの鏡」に夢中になったハリーをえぐっただろうなと。

愛と冒険と成長の物語の続編として、とても誠実であり、厳しくも優しい、そんなすばらしい作品であったと、心の底からから拍手を贈りたい。

また、作者の母国であるイギリスで舞台「ハリー・ポッターと呪いの子」が上演されたとき、続編が描かれたことによって「その後」を想像する楽しみが奪われた、といくらか残念に思われた方もいらっしゃるかもしれませんが(孫世代、という通称でのファンアートも盛んに作られていましたし……)、蓋を開けてみれば、本編中にいくつもの“if”の世界が呈示されたことで、ここがこう違っていたらこの人はこうなっていたかもしれない、などと本編を読み返しながら想像する楽しみはむしろ増えたといえるのではないでしょうか。

最後にひとつだけ。これは『呪いの子』を読了した方に向けた言葉ですが、スコーピウスは狡猾の象徴としてのそれではなく、大切なひとのために自分の体を燃やせる、銀河鉄道のサソリでしたね。

古本屋 草古堂は、映画「ハリー・ポッター」シリーズのDVD・サウンドトラックや、この『ハリー・ポッターと呪いの子』、杖などの関連グッズ、『死の秘宝』刊行時に受注生産された全巻収納用木箱の買い取り大歓迎です!! 出張買取も承りますので、お気軽にお問い合わせください