2019年の現在を生きる田舎出身者の僕にとって、1960年に開店した六本木のとあるイタリアン・レストラン、そこに訪れる華々しい文化人や芸能人と一流の気品を持ったオーナー夫妻の交流の物語は最早ほとんどフィクションのようで、文庫本のページをめくるごとに、まるで貴族の社交界を覗いているようなワクワク感がありました。
そのレストラン “キャンティ” の常連には三島由紀夫、ミッキー・カーチス、伊丹十三、黒柳徹子、加賀まりこ、安井かずみ、かまやつひろし、松任谷由実…ここには書ききれないほどの輝かしい著名人たちの名前が挙げられています。レトロ趣味で、昭和芸能界ファンなところもある僕は、まず昭和のスター達がこよなく愛した店としてキャンティを知り、当然どんなレストランなのかを知りたくなりますし、そうなればこのノンフィクション『キャンティ物語』を手に取らずにはいられなかったわけです。
レストラン キャンティはまだ日本に本格的なイタリアン・レストランがなかった1960年、オーナー川添浩史と妻の川添梶子を中心に、二人の夜の遊び場のような店として麻布に誕生します。当時の日本はナポリタンとミートソースぐらいしかスパゲッティが広く知られてない時代で、キャンティでバジリコを出したら“緑色のスパゲッティ”と驚かれたというほど。しかしそのバジリコは梶子のアイデアで大葉とパセリを加えた日本人向けのアレンジが施されており、次第に看板メニューとなります。当時はキャンティのように深夜3時まで営業している飲食店がなかったので、夜型になりがちな芸能人、作家、テレビマン、政治家などが自然とキャンティに集まり交流を深め、単なるレストランではなく“大人の遊び方”を教わる場所になったそう。浩史と梶子は常連から「パパ」「タンタン(イタリア語で“おばさん”)」と呼ばれ、二人に会える喜びもキャンティの魅力でした。
『キャンティ物語』はキャンティ開店後のエピソードももちろん描かれていますが、それ以前の、華族の庶子として生まれた川添浩史の学生時代やパリ留学時代、本業の文化活動、梶子との出会い等にも多くのページを割いてしっかりと書かれています。最初は昭和芸能界よもやま話を期待して読み始めた僕も、次第にその昭和初期の富裕層である浩史の、戦中戦後とは思えない非常に文化的に恵まれた暮しに興味をひかれてゆきました。アヴァンギャルド映画の勉強にパリへ留学(しかも専門学校はあっさり自主退学)、モンパルナスのカフェに入り浸り、オートバイを乗り回し、売れる前の写真家 ロバート・キャパと親友になり、当時パリで活躍していた日本人ピアニスト 原智恵子と最初の結婚をする等、当時の日本庶民とは違いすぎる浮世離れした生活があまりにも華々しくフィクショナルで驚きます。そして浩史は若かりし時から非常にスマートな紳士であったと言います。華族の暮らしの中で自然と身についた気品ある身のこなしやマナー、センス。ときにはお坊ちゃん気質と揶揄されるほどの心の余裕。上流気取りでない、本物の高貴さがあったと語られています。
もともと彫刻家を目指してイタリアに留学していた川添梶子も当時では考えられないほどハイセンスで、キャンティの常連客であった加賀まりこ、安井かずみ、松任谷由実などとりわけ女性客は梶子をリスペクトし、理想の女性として彼女からその美意識を学んでいきます。ファッションや髪型はもちろん、店で出す料理(レシピは梶子によるもの)や食器、飾る花、身のこなしにもブレることのない審美眼でこだわり抜いてチェックし、安井かずみには彼女が連れて歩くボーイフレンドについても「あの子はダメね」「まあまあね」とアドバイスしていたといいます。当時の日本女性にはない天真爛漫さと、美に対する強い眼差しに皆が憧れました。ちなみに松任谷由実(当時は荒井由実)のアルバム『MISSLIM』のジャケット、ピアノの前に座るユーミンは梶子の部屋で撮影されたものだそうです。
川添浩史・梶子の生き方を知り、お金や生まれがどうかは関係なく、僕も背筋を伸ばして生きてみようかなあと思いました。まあ、どう転んでも華族並の資産を得ることは一生ないので…気持ちだけでも気高く生きれば、自然と目線も高くなり状況がより良い方向へ変わっていくかもしれないではないですか!(ということにしておいてください、うん)
ちなみにキャンティは今でも六本木に存在し、浩史の孫に当たる3代目が店を受け継いでいます。伝説のバジリコ・スパゲッティに舌鼓を打ちたい方はぜひ、ご予約を。ドレスコードにもお気を配りくださいませ。
キャンティ ホームページ http://www.chianti-1960.com/index.html
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