生と死、そして自分を深く見つめた末にたどり着いた"小屋"―高村友也『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』

あまりに生きづらすきて隠遁したところ、無限の自由と孤独を手に入れ、計らずもミニマリストとして注目された男の哲学的自叙伝です。

『僕はなぜ小屋で暮らすようになったか 生と死と哲学を巡って』(高村友也/同文館出版/2015年)

自作スモールハウスでの質素な暮らしぶりが注目された筆者の、幼少から現在までが書かれたあくまでも自伝あって、ハウツーミニマルライフやスモールハウスの作り方を説いた本ではありません。

幼少期の筆者はある日突然「死の概念」を自覚してからずっと死の恐怖を感じながら生きることとなったとのこと。普通の子どもならば例え死の恐怖を知ったとしても、喉元過ぎれば他に興味が移ったり、考え続けることに疲れたり、忘れたりで、絶対にいつか自分にもやってくる死をわきにどけておけるのでしょうが、筆者はずっと死と自分を見つめ続けてしまいます。きっと脳に高品質なメモリを積んでるがために負荷が高い処理をし続けてしまえるのでしょう。自分を誤魔化すこともできず、真正面から死に向き合ってしまいます。

自他に高いハードルを課し、生きづらいほどに肥大した自我を抱えた筆者は、成長するにつれ社会の中で生きていくことが困難になっていきます。可能な限り自己完結し、時間やタスクによる制限がない生活を望み、路上生活者にもなったりした末、30代で山の中の安い土地を買い自ら小屋を建て、圧倒的に自由で孤独な「安全地帯」を手に入れるのです。

山の中の生活を手に入れるまでは読んでいて重く苦しいです。ひたすらネガティブな自分語り(自叙伝なので当たり前ですが)が続きます。自分は他の人間と違うと言いたげな部分もあるので、著者を「厨二病」と揶揄することは簡単ですけど、脱ぎたくても脱げない自分自身という生きづらさを背負い続ける苦難は想像を絶します。しかし山の中での暮らしを書いた章では、文体がイキイキしていて、自力で生活する困難さも自然に受け入れ解決していく姿が微笑ましく、読んでいて転がるように目が次の文を自然に追っていきます。

著者が東大で哲学を学んでいたことも手伝っているのか、やや周りくどい文体ですが、読みづらくはありません。ただ筆者が自らの深淵をあまりに深く見つめ続けるため、底の見えない暗い穴が続き、読んでいるこちらが手を伸ばそうとしても著者の考えにしっかりタッチできたような実感は少ないです。しかし簡単に共感させないところに著者の誠実さを感じます。それは当たり前のことで、ひと一人の考えなんて本来そうやすやすと共感なんてできないものだとも思います。

自己完結することの居心地の良さは、空想を楽しむ一人遊びが大好きだった一人っ子の私も大いに共感できました。同じように幼少期に死の恐怖で一時的に不眠にもなりましたが、まあ上等なメモリを積んでなかった私の脳味噌は、うまいことうやむやにできました。ある程度の鈍感さは身を助けますね。

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店員T

基本なんでも広く浅く。たまに楽器も触ります。