あらすじに目を通しただけで、「これは絶対自分の感性に合う」と確信を抱く作品ってありませんか? 不思議なことに、そういったカンはたいてい外れないんですよね……。幸運にも、最近またそんな作品に巡り会えたので、ご紹介したいと思います。
三島芳治作の『レストー夫人』。とある学校で毎年、2年生の7クラスが同じ「レストー夫人」を違った演出で上演する、という設定に惹かれ購入。一時期戯曲の翻案について学んでいたからか、各クラスがどんな「レストー夫人」を作り上げるのかをオムニバスのような形で追っていくものかと予想していたのですが、実際はだいぶ違っていました。
この『レストー夫人』は、「劇の中の女の子のような言葉で会話する」少女・志野襟花を軸として、劇の稽古を進めるなかで彼女のクラスメイト達にスポットを当てながら展開される、2年2組ただ1クラスの個々人とその関わり合いの物語だったのです。
ラフながら決して雑には見えない線で描き出されたシンプルな画面に、ところどころ、印象的なフレーズが散りばめられています。
「志野と話したあとは 他の友だちとおしゃべりする時みたいな 運動のような疲れがまったくなくて 一人で静かに外国の本を読んだあとのような気分になった」(p.16)
「きっとお話がたくさん必要なんでしょう 子供や 学校や 街や この地球(ほし)に」(p.34)
「自分のまわりを上手にお話にしてる人の雰囲気があるもの」(p.67)
「まるで狼に育てられた狼少年みたい お話の中だけで育ったから だからこんななのね 不自然でしょう言葉遣いも 女の子の模型よ」(p.123)
物語の主人公の名前を子供の名前に置き換えて話すという教育メソッドを受けて育てられたために「外の世界に出てもいつもお話の中にいるよう」に感じ、自身を「模型」「怪獣(キメラ)」と称する志野をはじめとして、あるはずのない「印(めもり)」が視える川名、考えていることを「発表しない」主義で徹底して言葉を発さない鈴森、「公式な言葉の使い方」を覚える前に腹話術を会得しそれを活かして鈴森に声を当てることになった井上、模型を愛し、志野への質問を通して彼女の全体像と真実を描き出してゆく石上、そして彼ら彼女らを見つめ、「志野が主人公の物語」を書いているかのような錯覚のなか稽古の様子を書き留めてゆく記録係・鈴木。
みなそれぞれに個性的で(つまりどこか変で)魅力に溢れた登場人物たち。
なかでも独特の立ち位置にいるのが、衣装係という役割を与えられた作中の人物でありながら、志野という物語の「読者」でもある衣装係・石上。彼は、上に引用した志野の発言(「まるで狼に~」)を受けて、同じく志野の「読者」である鈴木なりの志野解釈を咀嚼したのち、女の子の模型なんていなくて、そう思い込んでる変な女の子が一人いただけ、と返すことになるのですが、その場面を見ていると、人が言葉で人を救う瞬間を目の当たりにしたという感慨がこみ上げてくるんですよね……。
自分は物語の中でしか生きられないと思い込んでいた志野が、戯曲の登場人物を演じる過程で鈴木と石上という観察者に読み解かれて現実に自分を見出すというのは、なんとも運命のいたずらといった趣があります。つい微笑んでしまいそうになる類の。
この作品は4章構成となっており、それぞれの章は、その章の中心人物によるモノローグと、その人物とクラスメイト達との対話によって織りなされます。読んでいるときの感覚としては一人称小説のそれに近く、これは「この子たち自身の物語」なんだと確かに感じさせてくれるその語り口は、学校という舞台設定もあいまって、繭の中のような柔らかさと隔絶性を伴いつつ物語全体を包みこんでゆきます。
志野がいくら「お話の中」の自分に倦んでいたとしても、その幻想が、それまで信じ続けてきたものが壊される以上、彼女は相応の痛みを覚えてもおかしくなかったはず。だというのに、彼女の得た幸いばかりを伝えてくる仕上がりになっているのは、そこに至るまでに作られてきた空気感のおかげでもあるのでしょう。
作中において他のクラスの「レストー夫人」については数言しか触れられず、読者がその詳細を知ることはないので、どんな子たちがどのようにしてどんな「レストー夫人」を作り上げたのか、ついぼんやりと思いを馳せてしまう今日この頃です。
巻末には「燃えろ、ストーブ委員」と「七不思議ジェネレーター」という2本の短編が収録されています。個人的には前者の押し付けがましくないメッセージ性がとても好ましかったので、こちらもぜひお読みになっていただきたいところ。
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