小学生のころにあさのあつこの『No.6』に熱を上げたためかディストピアものに格別の思い入れのあるわたし店員Nですが、1年ほど前にとある小説を読んで、ディストピア、そしてユートピアに対する考えを根底からひっくり返されたような衝撃を受けました。
2009年に34歳で没した早世の天才、伊藤計劃。彼の、単独で書き上げたものとしては最後の作品となった『ハーモニー』。典型的なディストピアものと見せかけて、クライマックスでいっそ優雅にヴェールを脱ぎ捨て無機質で完璧な調和のとれた「ユートピア」を出現させるこの小説。
伊藤計劃は、デビュー作であり『ハーモニー』の直前の作品にあたる『虐殺器官』で個人的な「感情」に振り回され世界に混乱をもたらす人間を描き出し、そこから必然的に導き出される結論を、事実上の続編である『ハーモニー』という小説の形で発表しました。つまり、人間に「意識」「感情」がある限り、真の「ハーモニー(調和)」はありえないのだ、と。
そこまでは他の多くの作家も悟ったことでしょうが、彼ら彼女らはおそらく、ならばユートピアを諦めざるを得ない、という方向へ向かったことでしょう。「意識」「意志」「感情」といったものは、これまでずっと、とりわけ文学や哲学においては、ほかの何にも優先する人間の本質として扱われてきました。そうして「ディストピア」ものというジャンルが出来上がった。けれど伊藤計劃はその文脈からすこし外れて、脳科学や認知科学の研究結果に基づいて「ならそれらを消せばいい」という考えに辿り着いたのです。これまでの、各々の意識をもつ人間が互いへの思いやりによって成り立たせるユートピア像からひとっ飛びに、システムの一部としての人間の集合による無機質で完璧なユートピアを提示した。
作中でとある登場人物が主人公に対して、人間の「意志」は進化の過程で実装された後付けの機能に過ぎないからそれを取り払っても問題はない、というようなことを例を挙げながら淡々と述べてゆく場面がありますが、そこでわれわれ読者は盤石なものだと信じて疑わなかった足場が突如消えてしまったかのような不安に襲われます。そんなことはないと反論したい、しかしその圧倒的な説得力に、黙りこむしかない。
ハヤカワ文庫の新版(写真参照)の巻末に収録された「S-Fマガジン」の編集部によるインタビューでは、作者もそのことについて、「意識」「感情」に代わる人間の「その次の言葉」を探している、それがあってほしい、けれど今のところは見つからない、というニュアンスの発言をしていて、理知的な人間が溢したその発言の切実さに胸を打たれました。緻密に組み上げられたロジックの中のそのエモーショナルな部分が、この小説に彼曰くの「色気」、読者を引き込む魅力を与えたのでしょう。もし彼が生きて、作品を発表しつづけていたのなら、いつかはそれを見出して読者に示してくれたのかもしれない。そう思うと、それが永遠に叶わなくなってしまったことへの切なさが募ります。
また、同じインタビューで彼は、人称の問題について「誰かの物語でしかないんだったら、三人称を使うよりは一人称を使った方がいい。とすると、何らかの根拠がないと一人称では書けない」と述べており、『ハーモニー』はその思想を体現するような独特の「語り」の形式を採用している作品なので、そこにも注目して読んでいただきたいところです。
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