わたしの友人に、翻訳された文章を読んでいるとどうしても「これは本来の文とは違うものなのだなぁ」と感じてしまうため、はじめから日本語で書かれた本しか読まないという人がいます。はじめてそれを聞いた時とても驚いたのですが、もしかすると、同じ理由で海外文学に苦手意識を抱いている方というのは意外と多いものなのでしょうか?
彼の意見も理解はできますが、翻訳、海外文学に浅からぬ縁のあるわたしとしては、べつの主張をしたくなります。すなわち、翻訳はけっして単なる置き換え作業ではなく、翻訳者の歩んできた人生やそれによって培われた価値観をそそぎ込む、ある種の崇高さすら感じさせる行為である、翻訳された本はひとつの芸術作品なのだ、と。
とはいえ一介の学生が訥々と意見を述べても説得力に欠けますので、そのことを言葉で語るよりも雄弁に伝えることのできる映画、ドストエフスキー5大長編(『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『悪霊』『未成年』『白痴』)の新訳に生涯をかけて取り組んだ翻訳家・スヴェトラーナ・ガイヤーを追ったドキュメンタリー「ドストエフスキーと愛に生きる」をご紹介します。
タイトルだけみると、ドストエフスキーの小説についての映画、という少々お固いイメージを抱いてしまわれることでしょう。しかし実際には、翻訳についての映画、ひとりの人間の数奇な人生を描き出した映画、という見方もできる作品で、ドストエフスキーそのものにはさほど興味がないという方にもおすすめできます。
スヴェトラーナの口調は穏やかでありつつ強い意志を感じさせ、そのために作品は終始静謐な空気感を漂わせます。背景にしても、監督に「古き良き時代のロシアの邸宅のよう」と評された彼女の家や古めかしい列車、雪に覆われたウクライナの道、ギリシア正教の教会など独特の雰囲気を纏った場所が多く、彼女の言葉とシンクロし、それにより一層の深みをもたせています。
「翻訳は、左から右への尺取り虫ではない」
「わかる? 全体を見なくてはならないの そして愛さなければ 一つ一つの彫像はみえてこない」
「人はなぜ翻訳をするのか? それは逃げ去ったものへの憧れかもしれません」
スターリンにより父が、ヒトラーによりユダヤ人の親友が、ふたりの独裁者によって周囲の人間が次々に殺されていった厳しい時代を、スヴェトラーナは外国語の知識によって生きのびました。(この映画のなかで彼女は戦争についても言及しており、「精神的な経験はいたわりを育む そうでなければ殺し合うことになる」というフレーズがとても印象的に残っています。)「言葉によって、救われた」と話す彼女は、言葉に感謝し、ひとかけらの妥協も許さない誠実さをもって翻訳に臨んでいます。だからこそ、上に挙げたような彼女の翻訳論は聴くものに深い感銘を与えるのです。
終盤で彼女の息子の死が語られ、スヴェトラーナは彼が柩に寝かされたときの様子を「それはまるで赤ん坊を揺り籠に横たえるよう」を述べているのですが、ごく個人的に、SoundHorizonのアルバム『Roman』が思い出され、こみ上げてくるものがありました。
翻訳という行為、翻訳された文章に苦手意識を抱いている方に、ぜひ一度ご鑑賞していただきたい作品です。