1年ほど前の、ある肌寒い日。私が在籍している大学のすぐ近くにある学生御用達の書店、そこの店員さん一押しコーナーにこの『しまなみ誰そ彼』は並んでいました。その日の私は、この本の帯を見て、息が止まるという感覚を久々に味わうことになったのです。
まず目に飛びこんできたのは、表紙の、繊細な絵と印象的な青。そして視線をすこし落とし、件の帯へ。そこには、次のような文句が書かれていました。
「お前、ホモなの?」――その言葉に僕が、死んだ。
『しまなみ誰そ彼』は、ゲイであることを必死で隠し苦悩してきた少年・介(たすく)が、「誰かさん」と呼ばれる女性や彼女のお店に集う面々と触れあう内に、自らの性指向、ひいては自分自身を受けいれてゆく話です。私自身、同性愛者でこそないものの、周囲から押しつけられる異性愛者の価値観に違和感を感じている身なので、読んでいてとても「刺さる」ものがありました。
とりわけ鋭かったのは、クラスメイトにゲイであると知られかけ自殺寸前まで思い詰めた介の、さんざん溜め込んだ感情をありたっけのせた叫び。
「なんで! なんで俺が、 なんでお前らの顔色見て生きてかなきゃいけないんだよ。 なんでこんなに串刺しにされなきゃいけないんだよくそ!! 俺は死にそうなのになんであいつらは死なないんだ」
私は、もう長いこと、ひとつの理想を抱いています。性的マイノリティが特別視されない世界。わざわざ注目などしなくてもよいくらいに、それらが当たり前のものとして認識される世界。多数派の人々と同じように、少数派の価値観が受け入れられる世界。なにもこれは、性的指向に関するものに限りませんが。
同性の人を好きになるのは、けっして異常なことではない。マイノリティ、というように、ただその指向をもつ人の数が少ないだけのことです。マジョリティとマイノリティの差は、ノーマルとアブノーマルの差にはなりえない。
ここ数日、アメリカ大統領選の結果を受けて、ネットでいろいろな意見が投稿されているのを目にします。そのなかに散見されるのは、移民や特定の宗教を信仰する人々や女性、そして性的マイノリティに対する差別的な発言を繰り返してきたトランプ氏への憤りの声。その声が上げられた、そして多くの人がそれに同調している、その事実が、この辛い現実のなかでせめてもの救いとなってくれています。
誰かにとっての「誰か」は、もしかするとすぐ近くにいるのかもしれない、そう信じたい。
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